あなたは“恐怖”について考えたことがあるだろうか。
例えばその代表としてホラー映画があげられるか。悪霊や悪魔、殺人鬼といった存在に僕たちは恐怖を感じる。現実社会の中にある恐怖といえば、天災やいじめといったものも恐怖を感じる対象になるだろう。
なぜ恐怖を感じるのか、それは自分の身の危険を、死を感じるからだ。
こいつは自分に害を与える存在かもしれない。自分はこいつのせいで死ぬのかもしれない。そういった不安が恐怖を駆り立てる。それを身近に感じれば感じるほど恐怖は増していく。逆に言えばそういった不安がなくなれば人は恐怖を感じなくなる。
悪霊だと思っていたやつが良い幽霊だと分かった途端怖くなくなるのはそういうことだ。
怖いヤンキーが子猫に傘を指してあげていただけで怖くなくなるのはそういうことだ。
映画のジャイアンが怖くないのはそういうことだ。
話が少し逸れたが、あの時ぼくは確かに恐怖を感じた。
ぼくはジェイソンが怖いのだと思っていた。
ぼくは悪魔が怖いのだと思っていた。
ぼくは貞子が怖いのだと思っていた。
今まで体験したことのない恐怖が『キャッツ』にはあった...
全ての始まり
(http://yurukuyaru.com/archives/81771242.htmlより引用)
この映画に不穏な空気が流れ出したのは、12月に行われたワールドプレミアムである。
上映を終えたあと、信じられない酷評が相次いだ。
キャストが『幸せって何かを思い出した』と歌っていたが、劇場の出口を見たときにも同じことを思い出せるはずだ
犬生誕以来、猫にとって最悪の出来事だ
なんだこの大喜利状態...ぼくはこの評判を見たとき絶対に劇場に観に行かねばならないと決意した。そしてさすがにこの評はふざけているだけだろうと思った。というか完全にふざけている。そもそもの『キャッツ』という作品事態を馬鹿にしてんだろと。
一ヶ月後この評は酷評ではなくそう表現するしかなかったのだと気づくことになるとは...
今回は『キャッツ』の恐怖について語りたいと思う。前半はネタバレなしで、後半はネタバレをしながら語っていく。
もしあなたがまだ映画を観ていない場合、ネタバレ部分を読むかはあなたの意思に任せたいと思う。しかし出来るならばぼくはあなたにあなたの目で純粋に映画を観てほしい。
なお、先に言っておくとぼくにはこの映画を酷評する気持ちはない。なかには批判、酷評しているように感じる表現もあるかもしれないがそれは誤解である。
『キャッツ』はそもそも歌と踊りを楽しむショーのような作品であって、そこを無視してゴミ映画とか駄作というのはお門違いである。恐怖はあくまでも副産物に過ぎない。
それでもぼくが『キャッツ』の恐怖について語るのは、この“映画”を観て恐怖を感じた人数多くいるのが紛れもない事実だからだ。これは明らかに舞台版『キャッツ』では起こり得なかったことだ。
それを「『キャッツ』を知らないからだ」で片付けるのは作品を知らないのに的外れな酷評をしている人と変わらないのではないか。
映画という媒体によって生まれた恐怖は間違いなく存在している。目を背けてはいけないのはそこに人が超えてはならないフィクションのラインが隠れているからだ
ぼくはこの映画がオススメかどうか聞かれれば間違いなくオススメと答える。ぼくはこの映画が好きだ。
(映画ドットコムより)
『キャッツ』とは
そもそも『キャッツ』とはどういった作品なのか。そこから説明をする必要があろう。
もともとキャッツとはT・S・エリオットによる詩集が原作になっている。その詩集をアンドリュー・ロイド=ウェバーが舞台ミュージカルとしてこの世に送り出したのが『キャッツ』である。
元が詩集であるため、ひとつの世界観はあれど、小説のようなストーリー性はない。
よって舞台『キャッツ』は物語を楽しむというよりもそこにいる猫の日常を覗き見るような作品だ。猫が歌い踊りただ生きているのを眺めるのがこの作品の楽しみ方なのである。
だから『キャッツ』においてストーリーがないことはたいした問題ではない。この映画の感想・レビューを挙げている人たちの中で「ストーリーがないから駄作」と述べている人は『キャッツ』を知らないし調べもしない、相次ぐ酷評に便乗したいだけの愚か者である。
しかしこの映画が恐ろしいのは猫の世界を拡張したその先にある。
恐怖の正体
ぼくは初めて早く映画館から出たいと思った。
初めて映画を観ていてたすけてくれ...と思った。映画が終わったあとの劇場の空気が衝撃的すぎて一生忘れないだろう。
今作は映画として面白いとかつまらないの次元にはいない。
ただただ怖い。
そしてあなたはこの目の前で起こっている現実を受け入れられるかどうかそれだけである。
映画の上映中、まさに夢のような時間だった。ただし悪夢であるが。いや、悪夢だったならまだ良かった。これはリアルなのだ。
そう、リアルなのだ。
この映画は極限まで『キャッツ』の世界をリアルに表現している。リアルだから恐怖心を煽られるのだ。
始めにした恐怖心の話を覚えているだろうか。
人は身の危険を身近に感じれば感じるほど恐怖を感じるのである。“死”が目の前に迫れば迫るほど人は恐れ慄くのである。
『キャッツ』はまさにそうだった。
なにがリアルなのか。猫の見た目?そうだが違う。踊り?そうだが違う。歌?そうだが違う。視覚効果?そうだが違う。ストーリー?そうだが違う。
ぼくがもし猫を飼っていたならば、家に帰ったとき出迎えてくれるかわいい猫に怯えるだろう。
猫が好きだから大丈夫?甘い、ぼくもそう思っていたよ。
トム・フーパーは豪華キャストを据え誠実に熱意を持って舞台の映画化としていた。それなのになぜこんなことになったのか。
これは奇跡によって生まれた恐怖の映画である。
※ここからはネタバレが含まれる。
ラスト以外は大きなネタバレはしてないないつもりだが、展開に触れながら話していくので、一切のネタバレをされたくない人は一度ここで読むのを辞めてほしい。
そして、鑑賞後また戻ってきてくれれば幸いである。
この先も読んでくれるあなた。ありがとう、もう少し付き合ってください。
見た目
この映画を見た人、もしくは予告編を見た人が真っ先に思うのは「猫キモイ」だろう。
人の形をし、二足歩行で歩きそれでいて猫と言い張る彼らの姿は非常に不気味だ。その見た目は舞台版のそれとは似て非なるものである。
トム・フーパー監督は映画化の際に“壮大さ”と“リアルさ”に拘ったという。
今作の猫は非常にリアルである。視覚効果によって毛の動きをリアルに再現し、しなやかなダンスで猫を表現する。
猫たちはほぼ裸である。衣装を身にまとうものは一握りである。
そのリアルさが怖いのである。舞台版は“人が猫を演じてる感”があった。しかし、だからこそ観客に想像の余地を与え、役者たちを猫に置き換えて鑑賞するのである。
しかし映画版はリアルだ。観客がそれを我々がよく知っている猫の姿に置き換える余地はない。
今目の前にいる、人面のふさふさの毛としっぽがついた裸で二足歩行で動き回るその姿が猫であると捉えるしかないのだ。それはもう猫を演じる人間ではない。擬人化した猫でもない。猫でもなく人間でもない猫だと言い張る何かだ。
動きにもリアルさを追求した結果、奇妙な現象が起きる。
二足歩行で動き回り、両手で物を掴み扱い肉を豪快に喰らうくせにミルクは舌でペロペロと舐め回すのである。
怖い...どうしてミルクを飲むときだけ猫100%になるのだ。
さらにそこにダンスが加わる。
猫のしなやかな動きを表現したダンスは見事だ。
さらにさらにキャットスクールに通い、動きだけでなく内なる猫の表現に挑んだというキャストたちの名演は素晴らしく、『キャッツ』の世界観を見事に展開させていたと思う。
トム・フーパー監督始め、制作陣はよりリアルな猫を表現するために誠心誠意を尽くした。
しかしそれが怖いのだ。動きは猫にしか見えないのだが、顔がアップになると人間なのだ。
それはやはり猫でも人間でもない。猫を自称する何かだ。
さらに艶やかな動きは非常にエロティックな雰囲気を醸し出す。
そこに裸ときたもんだから、直接的なキスシーンだったり濡れ場はないものの、今にも行為が行われるのではないかという緊張感を常に孕んでいる。服を着ている猫がいるから余計に卑猥に見える。
しかも映画『キャッツ』では服を脱ぐという行為が発生するため余計に裸感が強調され卑猥度が増している有り様だ。
ひいてはおばさん猫が大股を広げ股間付近を掻く描写があったり、明らかに猫人間たちがイッちゃってる場面がある。
それが狙ったものなのかどうかはわからないが、この映画は全年齢対象である。だがぼくにはどうしてもあれが子どもの見ていいようなものには思えない。
だがその奇妙な見た目が怖いのはたいした問題ではない。見た目だけならその内慣れる。
猫以外
本当に怖いのは猫の世界を拡張したその先だ。 最初に恐怖を覚えるのは冒頭、開始10秒辺りである。
人間が出てくる。
人間のおばさんが布に何かを包みゴミ捨て場に捨てる。
猫人間たちが、それを空けると中にいたのは主人公のヴィクトリアだったという導入だ。
あなたは気づいたであろうか。
人間が出てくることの怖さに。
おばさんが捨てたのは猫ではない。人間の姿をした猫である。
そう、この世界では“人の姿をした猫”と“人間”が共生しているのである。舞台版でも人間は存在しているであろう。しかし、その姿は描かれない。
あくまでも猫しか描かれないことで、観客側が猫のコスプレをした人間を猫の姿に置き換え、一緒に生活していることを想像できるのだ。何度も言うが、人間が演じているという感じがするから成り立っているのだ。
しかし映画でははっきりと人間が出てくる。
人間と猫人間が同じ空間で暮らしていることをはっきり示す。ぼくたちは勝手に彼らをかわいい猫に置き換える余地を奪われた。こんなに怖いことがあろうか。
(キャッツ公式サイトより引用)
想像してほしい、家に帰ると彼らがいる生活を。
猫カフェで彼らが出迎えてくれる様子を。
『キャッツ』の楽しみ方として推し猫を見つけるというものがある。自分のテーマ曲を歌う猫たちを見て、お気に入りの猫を選ぶのだ。
自己紹介ミュージカルといわれる今作らしい楽しみ方だ。
しかしそれが成り立っているのは彼らを“猫”に置き換えられるからだ。『キャッツ』が好きだという人も猫人間のまま愛でようとしている人は一人もいないと思う。絶対に猫に置き換えているはずだ。仮に特殊性癖を持っていたとしても人間として愛そうとしているはずだ。
でもこの世界では猫人間のまま猫として愛でなければいけない。
あなたはそんな世界に耐えられるであろうか。
ぼくには耐えられない。
ぼくが5歳くらいの頃、ばあちゃんの家に大量の猫がいた。いつの間にか一匹もいなくなってしまったが少し怖かったがかわいい猫たちだった。ぼくはばあちゃんのことを「猫のばあちゃん」と呼んでいた。
あの猫たちが全てこの姿だと思うと恐怖で泣きそうになる。
「猫のばあちゃん」が違う意味を帯びてくる。
綺麗なメモリーは消え去りたい恐怖の過去へと変わる。
開始10秒でこれはやばいと思ったわけだが僅かな希望にかけて見続ける。しかし待ち受けていたのはさらに過酷な状況であった。
捨て猫のヴィクトリアの前にジェリクルキャットたちが現れる。彼らはこれから行われている舞踏会に備えているようだ。この舞踏会で長老のデュトロノミーに選ばれた者は天上に行き新たな命に生まれ変わることができるらしい。
この舞踏会で優勝し生まれ変わるのが『キャッツ』の目的であり、一応のストーリーだ。
ヴィクトリアの前に次々と猫が現れ、歌い踊りながら自己紹介をしていく。
ファンキーなラム・タム・タガー
マジシャンのミストフェリーズ
美食家のバストジョーンズ
中年太りのおばさん猫ジェニエニドッツなど様々なキャラクターが登場する。
問題はこのおばさん猫ジェニエニドッツの登場シーンだ。
他の猫同様、自分のテーマ曲を歌い踊る彼女。
彼女が合図をすると家のどこからかあいつらが出てくる。
ネズミとゴキブリが...
彼女はネズミとゴキブリを飼っている。彼女はネズミやゴキブリと共に歌い踊る。
これの何が怖いって?
ネズミとゴキブリにも人の顔がついているのだ。
もちろん体はネズミとゴキブリだ。
猫だけで十分怖いのにゴキブリまで...
怖い怖すぎる...これは嫌がらせかなにかだろうか。こんな映像だれが喜ぶというのか。
見た目だけならまだ良かった。恐怖はこれに留まらない。この後正気を失うような地獄の光景が目の前に広がる。
みなまでは言わない。ただ考えてほしい。猫とネズミの関係を。猫とゴキブリの関係を。
この世の理を。
ここまで来てなおトムとジェリーのような関係を想像している人はすぐに現実を見てほしい。
理想を語ることと現実から目を背けることは違う。
この後バストジョーンズという猫が出てくるのだが、彼の場面でぼくたちはさらに心を揺さぶられることになる。
彼のパートの途中、ゴミ箱の残飯を漁るという場面が出てくる。
猫なら別になんとも思わない場面だ。でも猫人間が嬉々としてそれを行っているのはきついものがある。
何度も言うがこれが舞台なら受け入れられる。猫を演じる人間が舞台の上でそういうセットの上で行っているのが分かるからだ。
でも映画はリアルに拘っている。そこにあるのはリアルな町並みとリアルなゴミ箱とリアルな残飯だ。
時に作り物感というのは大事である。
しかし、ぼくたちの心が揺さぶられるのはゴミを漁る猫人間の姿ではない。
それはゴミそのものにある。
バストジョーンズはゴミの中から拾ったエビを食べるのだが、エビはエビだった。
エビに人間の顔はついていなかった。
この世界には人間の顔がついた生き物とそうではない生き物が存在するのだ。その基準はなんなんだ...ゴキブリにはついていてエビにはついていない理由はなんなんだ...(ゴミ箱から出てきたエビに人面がついていてもそれはそれで困るが...)
そしてエビについていない以上、やはりこの世界では猫やゴキブリは人面の姿で存在しているのだ。
ぼくたちの僅かな希望はことごとく打ち砕かれる。そしてこのエビには顔がついていないという事実は後の恐怖体験の伏線として張られる。
このあとも次から次へと奇怪な猫人間が現れては自己紹介をしていきそして去っていく。
マンゴジェリーとランペルティーザというコンビの猫が登場する場面ではもう猫には驚かなくなっていた。
人の家に忍び込み荒らす二人とヴィクトリアだが、そもそも人の倫理観を猫に当てはめることがおかしい。
もう慣れたわと思っていた。感覚はもう麻痺していたと思っていた。
しかし恐怖は一秒また一秒と近づいていた。
一通り家を荒らし終えた彼らだが、犬に気づかれてしまう。
必死に押さえる扉の向こうで犬が吠え扉に突進する。犬の姿は一切見えない。
鳴き声と扉に激突する音だけが聞こえる。
犬はどんな姿なんだ?
犬も人面で二足歩行なのか?
だとしたらこの鳴き声と突進音はなんだ?どう考えてもぼくたちの知る犬が出す音だ。
逆に犬は犬だったらどういうことだ?
猫が人面なら犬も人面ではないのか?でもエビはエビだったぞ?
もし犬は犬だったらそれこそぼくの理解の範疇を超えて精神が壊れるかもしまうのではないか。
扉の向こうはどうなってるんだ。
いったい何が起きているんだ。
急に不安と緊張が襲いかかってくる。ぼくはまたしても恐怖に震えた。せっかく受け入れかけたこの世界の常識がまたしても崩れ去っていく。しかし真の恐怖はまだ訪れていなかった。
音楽と踊り
『キャッツ』の一番の醍醐味といえば音楽である。圧倒的な音楽の力が舞台『キャッツ』にはある。
映画にもそれは継承されている。世界トップレベルのキャストを集めた今作の音楽は相当レベルが高い。
そこに世界的ダンサーたちのダンスが加わるのでその点についてのエンターテイメントとしての力はすごい。
内容は置いておいても、これだけで見る価値は十分にある。というかそれがこの映画を見る価値なのである。
予告編でも一番の見せ場とされている<メモリー>は感動さえした。こんな時でも感動できる歌の力ってすごい。
日本語吹き替え版も素晴らしい。山崎育三郎や高橋あず美、山寺宏一といったキャストを始め素晴らしい歌を披露してくれる。
???
そうですよ?ぼくは2回観に行きましたよ?こんな言っておいて正気の沙汰ではないのは分かっているが吹替えも観なければいけなかった。2回観に行かなけばならなかった。
わかってる。昨日あんなこと言ってたのに正気の沙汰じゃないよ。そんなことはわかってる。でもどっちも観ないと駄目なんだよ。昨日の出来事が真実だったのか確かめたいんだよ。 pic.twitter.com/aqtHlRXXQ5
— EPATAY* (@tiiiiiisu) 2020年1月25日
不思議な現象が起きた。
2回目でもやっぱり怖いもんは怖かった。しかし吹替版ではその怖さがかなり薄まっていた。2回目でこれから起きることが分かっているからか?
いや違う。そんなことではない。何かが違った。考えた、必死にこの理由を探した。そして気づいた。『キャッツ』という映画は奇跡によって生まれた映画だったのだということを。
奇跡の映画
ぼくは吹替版を観たとき字幕版ほどの恐怖は感じなかった。絵面は変わらないのに、起きることは変わらないのに。変わるのは声だけだ。
しかしこれこそが恐怖を感じない理由だった。
字幕版と吹替版の大きな違いは何だかわかるだろうか。
もちろん言語が違う。しかしそれではない。吹替版も圧倒的な歌の力を持っている。下手だから冷めるなんてことは決してない。
じゃあ何なのか。
生歌である。
トム・フーパー監督はリアリティのために生歌にこだわった。
ダンスを踊った役者が息を切らす音が聞こえたら、そのリアリティに観客は親近感を抱くことだろう、リアルなものをみているんだということが伝わるんだからね
今作でサウンド・ミキサーを担当したサイモン・ヘイズはこう語る。
そうこれこそが字幕版と吹替版の恐怖の差だ。
生歌である字幕版に比べ吹替版は録音である。
この録音であるということが作品のフィクションレベルをグッと引き上げているのだ。
これに関してはどうしようもない。だからこそトム・フーパー監督は吹替版の制作できる国を日本とドイツの2カ国にしか許可しなかったのだと思う。もちろん日本語吹き替え版はその期待に見事に答えた。素晴らしい『キャッツ』の世界を構築していた。
けれどもリアリティという観点から見れば録音音声という事実は確実にリアリティのレベルを下げていた。
逆に生歌音声の字幕版はリアリティが極限まで高まっていた。だからここまで恐怖を駆り立てるのであろう。
もしも字幕版も生歌ではなく録音だったのならここまでの恐怖は感じなかったのだろう。
もしも猫の見た目が舞台版に寄せていたならば生歌であってもここまでの恐怖は感じなかったのだろう。
猫の見た目をリアルに再現したこと、ダンスによってしなやかな猫の動きを表現したこと、キャットスクールに通ったキャストが内なる猫を呼び覚ましたこと。荒いCGによって生み出される奇怪な動き。サイズ感とリアリティにこだわり1930年代のロンドンを作り上げたこと、生歌で歌ったこと、理解しやすくするために若干のストーリー性を持たせたこと。
これら全てが呼応し合いリアリティを生んだ。完璧なほどのリアリティを生んだからこそ死の危険を感じた。
『キャッツ』は奇跡の映画だった。
全ての要素が奇跡のように絡み合い、かつてない恐怖を生み出したのである。どれかひとつでも欠けていたらこの恐怖は生まれていなかった。
そしてこれらの要素は全てトム・フーパー監督はじめ制作陣が狙ったものである。
彼らが『キャッツ』を映画化するにあたって拘ったことが全て成功した結果がこれなのだ。彼らは熱意を持って映画を作った。そしてその熱意は見事に映画に伝わった。
彼らが望む形とは別の形で。
信じたくないはないが目の前に広がる光景はぼくたちの知っている猫そのものだ。
「それは猫じゃない」「そしたらそれは猫やないかい」と内なるミルクボーイが葛藤する。
ぼくたちは考える。
この映画は一歩間違うと自分たちの住む世界で起きていたことなのかもしれないと。
猫でも人間でもない何かを可愛がり彼らに癒やされる生活を、犬派か猫派で争う姿を想像する。
そこにはぼくたちの知っている世界はない。認めてしまえば猫の概念、いや、生物の概念が変わってしまう。
自分の信じていた世界が破壊される。それはもはや死である。
しかしまだぼくたちには希望がある。
映画館をでてスマホで猫と検索すればかわいい猫の写真がでてくる。猫カフェに行けばかわいい猫ちゃんたちが出迎えてくれる。家で愛猫が待っている。
これは別の世界線の出来事であり、ぼくはそれを覗き見ているのである。この世界の人たちは可哀想だがぼくには関係ない。早く家に帰ってかわいい猫の映像で癒やされよう。
ラスト手前、映画が終わりを迎えようとしてるとき、長老デュトロノミーが歌い出す。「猫とお話しをする方法」。要約するに猫を労り丁重にもてなせということらしい。
こちらを見ながら。
恐怖は終わっていなかった。真の恐怖はまだ来ていなかった。ぼくのかすかな希望は粉々に打ち砕かれた。吹替版でもこの恐怖だけは拭えなかった。
彼女は第四の壁を超えてぼくたちに猫を丁重に扱えと語りかけてくる。犬との違いを説いてくる。
彼女たちは別の世界線の存在などではなかった。いまぼくたちが住むこの世界と同じ世界にいた。
猫が突然消えるのは天上に行ったからだ。
猫のばあちゃん家にいたのはあいつらだった。
猫でも人間でもない猫だと言い張る何かではなかった。
あれが猫だった。
ぼくたちは魔法によって視覚を操作されていただけだった。犬派と言ったらどうなるのだろうか。安い餌を与えたらどうなるのか。
死ぬ。信じていた概念が死んでいく。ぼくが、世界が死んでいく。恐怖で吐きそうになる。
これは人生が変わる極上のエンターテイメントだ。
これは一生に一度の体験だ。
深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。