【感想・解説】『殺さない彼と死なない彼女』キラキラ映画に本気で涙する

こんにちは。りゅうせいです。
あなたはキラキラ映画好きですか?


地味(という設定だけどめちゃめちゃ美女)な女の子がイケメンでグイグイなイケメン男子に見初められて恋をしてすったもんだあるけれどー
という、主に中高生が共感と憧れでキャーキャーいう作品群なわけですけども...


映画好きな人たちにはあまりよく思われていないジャンルでもありますよね。なかにはすげーボロクソいう人もいる...


僕は好きなんですけどねーキラキラ映画。若手俳優発掘の場になるし、一種のジャンルムービーとしての楽しみ方ができるし。もちろん面白くない作品もたくさんありますけど全部ひとくくりにして駄作とか言うのはどうかなーと僕は思いますよ。


『パラサイト』がアカデミー作品賞を獲った時には傑作韓国映画と日本のキラキラ映画を並べて日本映画を貶める人もたくさんいました。まあそういう人は日本叩きをしたいだけなんでしょうけど。


ハリウッドの大作と比べたりする人もいますけどそもそも比べる対象がよくわからないんですよねー。フランスの高級レストランの料理と日本のスーパーのお惣菜を比べて「日本料理はクソだ!」とか言ってる人いますか?いたら「あ、こいつやばい奴だ...関わらないでおこう」と思うでしょ。同じことですからね。


だからあまりキラキラ映画を頭ごなしに否定しないで欲しい...ジャンルとして苦手なら何も言わないけどとりあえず馬鹿にしとけば映画通みたいな思考なら止めていただきたい。傑作映画はどこに眠っているかわかりませんよ?


ということでね、なんでこんな話をしているかというと、キラキラ映画に属しながらもジャンルの枠を飛び越えた傑作映画に出会ってしまったんですよ。正直僕も舐めていましたよ。キラキラ映画を否定しないでとは言いましたけど僕もキラキラ映画をキラキラ映画として観てはいたのでそんな期待はしていなかったです。


でもめちゃめちゃ面白かった!年間ベスト候補に余裕で入ってくるくらい面白かった。是非みんなに観てほしい!食わず嫌いしないで!


ということで今回はこの映画について書きます。


『殺さない彼と死なない彼女』


間宮祥太朗×桜井日奈子『殺さない彼と死なない彼女』本予告

『お前はまだグンマを知らない』『全員死刑』の間宮祥太郎と“岡山の奇跡”こと桜井日奈子がW主演。


間宮祥太郎さんは正統派爽やかイケメン役から3枚目キャラ、超怖いキャラまでふり幅の広い役者さんです。僕は『帝一の國』のときの間宮さんが好きです。


桜井日奈子さんは『ママレードボーイ』や『ういらぶ。』などキラキラ枠俳優のひとりではありますよね。でもドラマや映画というよりはCMの印象のほうが強いのかなーと思います。キョトンとした顔がすごく良いと思うのですがみなさんどうでしょう。


監督・脚本は小林啓一監督。主題歌と劇中音楽を担当したのは奥華子さん。いいよね~、いいですよ~。


あらすじは

何にも興味が持てず、退屈な高校生活を送っていた少年・小坂(間宮祥太朗)は、リストカット常習者で“死にたがり”の少女・鹿野(桜井日奈子)に出会う。それまで周囲から孤立していた二人は、《ハチの埋葬》をきっかけに同じ時間をともに過ごすようになる。不器用なやりとりを繰り返しながらも、自分を受け入れ、そばに寄り添ってくれるあたたかな存在──そんな相手との出会いは、互いの心の傷を癒し、二人は前を向いて歩み出していくのだが……。
公式サイトより引用


という話なのですがどうですか?まさに地味女子が俺様男子に見初められて...というストーリーっぽくてキラキラしてますよね。間宮翔太郎と桜井日奈子、キラキラしてますよね。


高校生の胸キュンラブストーリーなんて興味ないし、『殺さない彼と死なない彼女』?そんな最近流行りのラノベタイトルみたいな作品なんておじさんおばさんにはキツくて見てられないよーと思ったそこのあなた、ちょっと待っていただきたい。


騙されたと思って最後のチャンスをこの映画に与えてあげてくれませんか。キラキラ映画に対するあなたの価値観が変わるかもしれないですよ。


ということで前置きが長くなりましたが感想・解説を書いていきたいと思います。前半ネタバレなし、後半ネタバレありです。付き合ってくれる方、よろしくお願い致します。


以下目次

ネタバレなし感想

あの映画との共通点

いきなり変なこと言いますけど、今作は『ジョーカー』です。


去年公開されたあの『ジョーカー』です。といっても全然物騒な意味ではなくて、テーマもメッセージも展開も全然違います。なにが『ジョーカー』と同じなのかというと、制作におけるフォーマットです。


どうしても伝えたいメッセージのためにアメコミという一大ジャンルのフォーマットを使い、そしてアメコミ映画として成立させながら伝えたいテーマを見事に描き切ったという点が一緒ということですね。


伝えたいメッセージのために一大ジャンルであるキラキラ映画というフォーマットを使い、そしてキラキラ映画として成立させながら見事に傑作となったのが今作です。キラキラ映画の枠にいながらも、ジャンルの壁を飛び越えて人間の本質的なテーマを伝えている作品だと思います。


それから、キラキラ映画だからこそ胸に刺さるというのもあると思います。高校生の甘ーい恋愛ものかと思って小馬鹿にしながら見ていたらまさか自分に跳ね返ってくるメッセージを突き立てられるっていう。舐めているからこそ、不意打ちで本質を突かれてドキッ!とするんです。。


どうしてもジャンルの好き嫌いはありますからこればっかりはしょうがないけれども、こういう映画が出てくるたびにジャンルで判断して食わず嫌いするのはよくないよなーと思ってしまいますね(笑)





他人の気持ちは一生わからない。

じゃあその映画のメッセージとは何なのか


コミュニケーションの本質とは独善的なもので他者を完璧に理解することは一生できない、それでも手探りで相手の気持ちを汲もうとするのが人と人との関わり合い......じゃないですか?
恋愛や友情ってすばらしいけどさ、どんなに仲が良くてもどんなに愛していても、どこまで行っても理解できるのは自分の気持ちだけですよね。


でもわからないからこそ、ひとつひとつ手探りで掴んでいくことに尊さがあって、そうして見つけた想いというのは時にあなたやわたしの未来を救うかもしれないですよっていう。


と言いつつ、他者を想う気持ちが全て良いもので、相手を救うのかというとそうではありません。


一方的な想いが行き過ぎるとそれは人を傷つけることにもなります。極端な例でいえばストーカーだったり、DVとか毒親だったり...自分の想いは正しいんだ、相手のためなんだという気持ちのみが先行した結果の最悪なケースがこの世にはたくさんあるわけです。


それを決して重すぎず、でもごまかさずに示しているのがこの映画です。お涙頂戴のようにも見えかねない展開ではあるんですけど、ちゃんと意味のある構成になっているのです。


高校生の友情・恋愛を描きながら、人と人との関わり合いについて哲学的なところまで踏み込んでいる作品なんですね。


そしてそれをより幅広く、普段あまり長編映画をみない層の人たちにも届けるためにはキラキラ映画とオムニバス形式です。


もともとこの作品は「世紀末」さんという方がTwitterで投稿されていた四コマ漫画が原作さんですけども、そのテンポと読みやすさを見事に映像表現に昇華した形がこのフォーマットです。


さらに言えば、この短編集的構造とキラキラ映画というフィクション感がよりメッセージ性を強くしている節さえあります。やっぱり自分の住んでいる世界とは別次元の世界の出来事だという感じがするんだけど、すぐ隣の町で起きた出来事のような身近さも感じるという不思議な味わいです。





6人の男女の群像劇

この映画は“殺さない彼”と“死なない彼女”のお話しをメインに描きつつ、別の二組4人の話を並行して描いています。


みんなから愛されたいきゃぴ子とその親友の地味子のパート。
好きな人に好きと伝え続ける撫子ちゃんと気持ちを受け続ける八千代くんのパート。
そして「殺すぞ」と「死にたい」でコミュニケーションをとる小坂と鹿野のパート。
この三つがオムニバス的に描かれていきます


それぞれが違ったアプローチでコミュニケーションの難しさみたいなものを描いているのですが、さっきも言った通り、これがすごく哲学的なメッセージを含んでいるんですよ。


伝えないと気持ちは伝わらないけど、伝えなくても理解しあえることもある、想いは時に人を救うけど時に人を殺しもする。人と人との関わり合い方に正解はなくて、どんなに頑張っても相手を完璧に理解することなんてできないけれど、でもそれこそが人間の本質だよねっていう。


ということでそれぞれのエピソードについて一つ一つ語らせていただきます。





「きゃぴ子」と「地味子」

映画.comより引用

きゃぴ子を演じるのは堀田真由さん。アンニュイな雰囲気があって、木村文乃さんに似ているような気もします。


きゃぴ子はいわゆるあざとい女の子というか、女子から嫌われるタイプの女の子。今はちょっと違うのかもしれませんけど田中みな実さんみたいな。自分が可愛いのもわかってる。世間一般のそういう女の子のイメージに堀田さんの演技がバッチリはまっていました。


きゃぴ子が全人類から愛されたいと思うようになったバックボーンや他人には見せない心の声も、表情や佇まいから見事に表現されていました。


地味子役は恒松祐理さんです。最近色んな作品でよく見るなーという印象。2019年は『凪待ち』や『アイネクライネナハトムジーク』『いちごの唄』など大活躍でしたね。これから大注目の俳優です。


で、この二人のエピソードが僕は一番好きで。


まあまず、きゃぴ子みたいな人いますよね。あざといというかなんというか。同性からすげー嫌われたり、第三者からけっこう馬鹿にした目線で見られるタイプの人。それこそ少し昔の田中みな実さんだったり小林麻耶さんみたいなイメージですね。


きゃぴ子自身もどういうことを言えば男が喜ぶのかというのがわかっていて、そういうことを選んで言うわけですよ。それでまんまと男は勘違いして喜ぶみたいな。で、次々に付き合って別れてを繰り返して常に男の影が絶えない。


現実で身近にきゃぴ子がいたら、やっぱり敵は多いと思うんですよ。映画の最初の方でもそんな感じで描かれる。そしてそれを優しく受け止めてあげる心優しい地味子みたいな構図に見えます。


でも話が進むにつれ、なぜこの子がそう思うようになるに至ったか、本心ではどう思っているのかがわかってきていつの間にか彼女に感情移入できるようになっているんですよ。


人から愛されたいって思って努力することはそんなに悪いことですか?っていう問いが生まれるんです。要するに人から愛されなくなった時に自分の存在価値はどうなってしまうんだろうという怖さですよね。苦労してやっと手に入れた人からの愛情が失われるのが怖い。だから自分の気持ちは押し殺して、男性の好きな自分を演じようとしてしまう。


きゃぴ子は決して本心は言いません。本心を言えば愛されなくなると思っているから。


そういうきゃぴ子の表に見せない内面まで理解してくれていたのが地味子です。理解しているから、きゃぴ子の行動に対する自分の考えや疑問は伝えますが決して彼女を否定したり変えようとはしません。


きゃぴ子という存在をただ受容してくれているのです。


そういった地味子との関係性というのは、きゃぴ子を自己の消失から何度も救ってくれているのだと思います。


そしてきゃぴ子から一方的に頼られていると思っていた地味子も、実はきゃぴ子の存在に救われていたということが判明するわけですね。本当にね〜二人の友情がすごく良いんですよ。


きゃぴ子には地味子がいて本当に良かったですよね。地味子がいなかったら多分彼女はあのまま恋愛で頭がいっぱいになって、なぜ自分はここまで「愛される」ということに固執する原因を考えることなく自己中心的な人物になっていったのだと思います。


それこそ問題の元凶となっている人物と同じ道を歩んで性的搾取し続けられる人生を送っていたと思います。


二人が下駄箱のところで駆けていくシーンがすごく輝いていてめちゃめちゃ好きです。あと「30秒で支度しなさい」のところもよかったな〜。秒数あってたかわかんないけど。


あと好きとは違うけど野球部のくだりよかったなー。野球部のあの独特の気持ち悪さがめっちゃ出てて最高でした。野球部ってだいたいあんな感じだから。野球部だった僕が言うので間違い無いです。





「撫子ちゃん」と「八千代くん」

映画.comより引用

撫子ちゃんは八千代くんに何度も何度も好きと伝えます。独善的に想いを押し付けているだけのようにもとられかねない行為ですが、それが素直で嫌味っぽくなく感じられるのは彼女が「人を愛すること」をただ尊いものとして捉えていて前向きな行動になっているからです。そして全く見返りを求めていません。


八千代くんは撫子ちゃんの気持ちに答えるようなことはしませんが、決して拒絶している訳でもありません。いつでも何も起きていないかのように撫子ちゃんの告白を捌いていきます。


おそらく八千代くんが嫌がってまで告白を続けるような女の子では無いということがわかるので、気持ち悪い感じがしないんですね。あとはキャラクター造形もあると思いますがそれは後述しますね。


大人びていてどこか人間味のないような感じもする八千代くんですが、彼は彼で心の内に抱えているものがあるんだということがわかって徐々に人間味が出てくるんですよ。撫子ちゃんの積み重なる告白が八千代くんの心をちょっとずつ溶かしていく様子にすごく胸を打たれます。


それから、地味子ちゃんと八千代くんが兄弟であるということが分かる場面があるのですが、一見これいるかなー?って思うようなシーンなんです。


でもよくよく見ると、お姉ちゃんの地味子と喋っている八千代くんは撫子ちゃんと話している時とは違った印象を受けて、あっ彼も高校生なんだなーということが強く感じられるシーンになっているのです。


そこに見えている一面だけが彼らの全てではないということが、こういった何気ないワンシーンで伝わってきてすごく上手い構成だなーと思いました。


過去で立ち止まる八千代くんに撫子ちゃんがかける「未来の話をしましょう」というセリフはすごく印象的でしたし、この映画全体のテーマにも関わってきます。このセリフで行き止まりだったはずの道が拓けていくんです。


結局回数に関わらず、告白っていう行為そのものが一方的な想いの押し付けであるわけで、誰にされるかで受け手の印象は180°変わる行為ですよね。そこを映画的に極端に表現したのが撫子ちゃんであって、要するに上手くいくかどうかはわかんないし、相手にどう思われるかもわからないけど、でも、それでも...ってことですよね。


難しい!難しいですよ。正解なんてわかんない!笑


撫子ちゃんを演じたのは箭内夢菜さん。撫子ちゃんの嫌味のない上品さを見事に表現していました。八千代くんを演じたゆうたろうさんも2.5次元味のある美しい方でこれから色んな作品で見かけることになるんじゃないかなーと思います。


撫子ちゃんが春夏秋冬いろいろな場所で告白する映像が次々流れるっていうシーンがあるんですけど、あそこすごく良いですね〜。とってもキュンキュンしますよ〜。

「殺さない彼」と「死なない彼女」

映画.comより引用

この映画のメインのパートでタイトルにもなっている二人のエピソード。どういう話なのかは最初の方に書いたあらすじを読んで欲しいんですけど、要約すると本人たちにしかわからないすごく不器用なコミュニケーションですね。


他の二つのエピソードも結局はそこに行き着くんですけど、このエピソードが一番分かりやすい。だって「殺すぞ、死ね」と「死にたい、殺してみろ」で成立するコミュニケーションですからね。側から見たらこの上なく物騒。


まあ、そもそもそんな言葉使っちゃいけないよーってことではあるんですけど、思春期のコミュニケーションってこんな感じじゃないですか? 使ってる言葉は悪いですけど、お互いにそれを嫌だとは思っていないんですね。むしろ変に優しい言葉で気遣われるよりもこの方が楽で心地よいみたいな。


あなたもいませんか?異性同性関わらず、他の人に言ったら怒られるけどこの人となら軽口叩きあえるって人。そういうことなんですよ。


殺さない彼である小坂は怪我でサッカーができなくなり、そのせいで荒れて留年しています。自分の人生を諦め何に対しても無関心になってしまいます。 死なない彼女の鹿野はリスカ癖がありいじめられていた過去があって、周りからは変わった奴として避けられているような女の子です。


そうして社会や他人にバリアを張った結果が「殺す」と「死にたい」なんだと思います。


それで、なんだか心地よかった関係性だった相手の存在が、自分でも気づかないうちにすごく大きくなっていき、特に意味のなかった「殺す」と「死にたい」が彼らなりの不器用な愛情表現に変わっていくということだと思います。


変なことですか?別に普通じゃないですか?僕は程度の差こそあれ誰にでもある普遍的なことだと思いますけど。映画で描かれている行動や発言は極端にデフォルメされてますけど、実際にはすごく普遍的なことじゃないですかね。





ネタバレあり感想

ここからは作品の根幹に関わるネタバレがありますので、嫌な方は一度ブラウザバックしてください。観賞後もう一度読みにきてくれればすごく嬉しいです。


まだ付き合ってくれる方はありがとうございます。よろしくお願いします。





作中最大の仕掛け

コミュニケーションの尊さみたいなものを描いている今作ですが、キラキラした彼らの物語の中には常に不穏な空気が付き纏っています。彼らの通う高校の生徒が殺害されたという事件の犯人による動画が断片的に出てきて、人の生死がチラつきます。


ネタバレ有りなのでもう言っちゃいますけど、その殺された生徒というのは殺さない彼である小坂れいでした。犯人は好きな人に対する愛情表現として「殺す」という行動をとろうとしており、その練習台として恋をしている人を殺すという計画を立てていました。そしてそのターゲットに選ばれたのが「殺すぞ」という言葉でコミュニケーションをとっていた小坂だったという皮肉ですね。


小坂鹿野のエピソードだけ画面の雰囲気が違ったり、他の2エピソードとは時系が違うなということはなんとなくわかりますし、きゃぴ子地味子が葬式に参列するシーンで鹿野の声が聞こえる(僕は全然気付いてなかったです)など、序盤から伏線も張られています。


まごうことなき作中最大の仕掛けなわけですが、この展開自体がすごいものなわけではないですし、「殺すぞ」が口癖だった男が殺されるという皮肉が重要なわけでもありません。


おそらくこの展開の最も重要なメッセージは「不条理は突然訪れる」ということではないでしょうか。 ずっと示唆されていたとは言え、小坂の死は唐突に訪れます。


二人だけの世界というのは他者の介入で簡単に壊れるのです。それは殺人に限らず、浮気とか不倫もそうですし、親族や周りの人の介入とかもそうですよね。


そしてその後の責任も取らずに何処かへ行ってしまう。ゆえに絶望感は計り知れないものとなります。


来年は一緒に花火をしたい。同じ大学に通いたい。 死なないけど死にたいとは思っていた鹿野が、小坂と出会うことで生きたいと思うようになった。生きる理由はあっけなく崩れ去り、再び「死」の選択肢が浮き上がってきます。


もう生きるための希望は存在しない。自分が死ねば大好きだった人と同じ場所に行けるかもしれない。死で想いを遂げた方が幸せになれるのではないか。最悪の選択肢が脳裏にちらつきます。


しかし、自分が生きる世界には二人の思い出や小坂の想いの証が残されていて、自分が死ねばそれさえも消えてしまうということに気づくんですね。


そして前を向いた鹿野のある行動が、小坂の死が、実は今までみてきた二組の未来に影響を与えていたとわかったところで号泣ですよ。


「未来の話をしましょう」この台詞がラストで昇華され、三つの物語が一つになり、そして私たちの世界と地続きで繋がるのです。





徹底したフィクション感がリアルに繋がる。

最後に今作のフィクション性について話したいと思います。


この映画を批判する意見の中で、セリフがわざとらしいなどフィクション性の強さを挙げる人が結構います。僕的にはそれこそがこの映画のリアリティに繋がっていると思っているのですが笑


例えば撫子ちゃんの口調が「〜だわ」「〜かしら」など、すごく漫画っぽかったり、きゃぴ子地味子っていう名前だったり、「殺すぞ」「死にたい」の言葉もそうですし。


どこか淡い色合いの画面もこの世界とは別世界のような印象を与えます。


でも、作り物っぽい言葉使いだったりするからこそ、ふと訪れる人間っぽさにドキッとしますし、物語が進むにつれ「あ、この人たちもどこかに住んでいる生きた人たちなんだ」と思えるんじゃないでしょうか。


ラストには遠くで見ていたはずの世界がすぐ横にあるはずです。


きゃぴ子地味子っていう名前も「そんな名前ないだろー」って思ってたのに、きゃぴ子は本名で地味子は本名じゃないとわかったときにすごくリアルな世界に変わるんですよ。


邪魔に思える要素が実はすごく大事な要素になっているというすごく秀逸な構成だと思います。





最後に

10000字以上使って長々と書きましたが、本当にジャンルで食わず嫌いするにはもったいない作品です。去年劇場で見なかったことを後悔しました。


上手く伝わったか分かりませんが興味を持ってくれたら嬉しいな。


キラキラ映画の見方が変わりますし、ジャンルの枠を飛び越えても素晴らしい映画でした。おすすめなので是非見てみてください。


では。