9月25日に公開された『ミッドナイトスワン』を観ました。
草なぎ剛さんがトランスジェンダー女性を演じたことで話題となり、世間で絶賛されている映画です。
ということで今回は『ミッドナイトスワン』の僕なりの感想を述べたいと思います。
なお先に僕のスタンスを示しておくと、絶賛はしていないので「自分と違う意見は全部的外れだ!」という人はブラウザバックしていただければと思います。
読んでくれる方はありがとうございます。あなたの感想も聞ければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
『ミッドナイトスワン』
監督・脚本:内田英治
音楽:渋谷慶一郎
トランスジェンダー指導:西原さつき(乙女塾)、山岸悠太郎(乙女塾)、瞬
出演:草なぎ剛、服部樹咲、水川あさみ、上野鈴華、真飛聖、田中俊介、吉村界人、田口トモロヲetc......
LGBTQ映画に対しての僕のスタンス
はじめに、僕はシスジェンダーでヘテロの男性です。男として生まれて男として育ち、それになんの違和感も抱かずに生きてきた人間です。
だからこれから書くことが、圧倒的特権を持ったマジョリティからの無邪気な悪意だったのならば指摘していただきたい。
まずは前提として僕がどういうスタンスで昨今急増するLGBTQ映画を観ているのか述べたいと思います。
それは「セクシャルマイノリティの人たちはもっと幸せであるべき。」です。
要するに救われない可哀想なマイノリティ像を社会に植え付けるのはもう辞めようということですね。
詳しくは以前書いた『his』と『窮鼠はチーズの夢を見る』を読んで貰えればどんな風にLGBTQ映画を捉えているかわかると思います。
『his』を鑑賞した際は、同性愛をめぐる現実と向き合いながらも当事者にとって希望となる着地の物語に「日本のLGBTQ映画は次のフェーズへ進む」と本気で思いました。
ただそれは僕の勘違いだったのかなというのが今の思いです。
今回語ることはほぼ『窮鼠はチーズの夢を見る』のときと同じです。
ただ今回は映画のテーマがトランスジェンダーで同性愛とは違うのでその辺を踏まえて貰えればなと思います。それから窮鼠〜の記事はけっこう感情的に書いてしまったので今回はなるべく冷静に書ければいいな......
※なおここからはネタバレ含みます。
誰のための映画だったのかを考える。
僕が今作を鑑賞して真っ先に感じたことは「当事者のための映画ではない」です。
はっきり言ってマジョリティが感動するためのマイノリティ映画という枠を超えていないと思います。
悲劇的で可哀想なトランスジェンダー像を作り上げ、それをシスジェンダーの観客たちが観て涙を流すという構図ですね。
邦画、洋画含め何十年前から描かれ続けてきたトランスジェンダー像なわけです。
今作でいえば草なぎ剛さん演じるトランスジェンダー女性の凪沙は家族には自分は男であると偽り、ホルモン療法の副作用に苦しむもお金がなく性別適合手術も受けられない。
トランスジェンダーであるためにまともな職につくことも叶わず、最終的にはタイで安価で行なった性別適合手術の術後が悪く命を落とす。
凪沙の悲劇的な運命と、そこに一瞬幽かに射す幻想の光に多くの観客は涙し美しいと評しています。
けれどもそれこそがシスジェンダーとトランスジェンダーとの間の乖離を広げると僕は考えています。
あなたは今作を観てトランスジェンダーはどんな存在であると感じましたか?明日、街を歩いているときにトランスジェンダーの人を見かけたらどんな気持ちになりますか?
その気持ちはトランスジェンダーの人たちが望んだものだと思いますか?
現実社会をリアルに描いているとして、それは誰のためなのか。もちろんリアルを知らないのはマジョリティの人たちである。とすれば当事者にとって社会の実情をリアルに描いただけの作品は地獄の再生産でしかない。この映画において現実社会で生活するトランスジェンダーの人たちは蚊帳の外なのです。
また、多くの人が知るきっかけになっているのだからいいだろという言葉、これは誰が誰に向けた言葉なのかよく考える必要があるでしょう。それを言ってるのはどの立場の人なのか、言われているのは誰なのか。
この映画を観て感動し涙を流した人、美しいと思った人を否定するつもりはありません。
ただ、感動したからこそ、涙を流したからこそ一度立ち止まってみてはくれないでしょうか。
この映画に怒っている人たちは何に対して怒っているのか見えてくるはずです。
可哀想なトランスジェンダー像
「可哀想なトランスジェンダー」
これはハリウッドを始めとして世界各国の映画業界で何年も前から問題視されてきた事柄です。
映画、ドラマにでてくるトランスジェンダーは常に可哀想な存在として扱われてきました。
死ぬかそれと同等の悲劇を辿るか、もしくはギャグとして笑いものにされるか。その選択しかありませんでした。
カムアウトすればゲロを吐かれるか烈火のごとく怒鳴られるか。またカムアウトの方法はいつでも性器か胸を見せること。
彼らは女装した男、男装した女であって、性別規範から逸れてしまったがために悲劇の運命辿る。
まるでおとぎ話しの主人公のように。
それが映画・ドラマにおけるトランスジェンダーでした。
そしてそれはいつも「現実を描く」という名目で肯定されてきたのです。
ではなぜ悲劇的に描かれるのか。至極単純です。その方がみんな喜び有難がるからです。
そういった、配慮をしているふりをしてマイノリティを感動のための道具に使うということがずっと問題視されてきているわけです。
では今作はどうか。
トランスジェンダー女性として差別されながら生きてきた凪沙は一果という希望を見つけるが、その希望も報われることはなく最後は壮絶な死を迎えてしまう。
ただ一果の胸には凪沙の魂が残されており、彼女の想いも背負って一果は生きていく。
凪沙には死ななくてもいい選択肢があったのに、無理に性別適合手術をしなくても母親になれる選択肢もあったのに、それなのに監督は凪沙が最悪な未来を辿ることをあえて選んだのです。
なぜか。
それが観客の心に響くと思ったからですよね。
可哀想なのは【普通】じゃないからです。難病物や障害を扱った作品で感動するのも同じです。
それは大衆のために当事者を踏みつけたも同然です。
僕は今作の後半の展開は明らかにリアルを誇張しより凄惨に描いていると思っています。
そしてあの展開を描くことで当事者の現実世界で置かれる状況が変わるなんてことは絶対にないと思っています。
本当にリアルなのか、本当に美しいのか
セクシャルマイノリティをテーマに描く上で、「楽しい」だけでは不誠実なのも確かです。
特に日本においてはそうでしょう。
辛い現実に曝されている人がいるのにそれをなかったことにして綺麗な世界だけを描くのは「嘘」でしかありません。
そういう点で前半は良く出来ていたと思います。引っかかる部分が0なわけではありませんでしたが、リアルを描きつつも一果との出会いで仄見える「世界がこうなっていけばよい」という希望。
真飛聖さん演じるバレエ教室の先生が凪沙に対してなんの他意もなく「お母さん」と呼ぶシーンや凪沙が一果にバレエを教えてもらうシーン、「ハニージンジャーソテー」か「ハチミツの生姜焼き」かで言い合うシーンはすごく好きです。
セリフでテーマを示すところも多々あり、この後の展開でそこに向き合っていくんだなと期待もしました(これについては後述します)。
ですが、後半に進むにつれて撮りたいシーンのための人物描写が目立つようになり、ラスト付近ではトランスジェンダーは道具にしかなっていなかった気がします。それに伴いリアルでもなくなっていきます。
例えば凪沙がタイで性別適合手術を受けるシーン。
待合室や手術室を映す際の色合いや、その後の凪沙の状態からは性別適合手術手術は命懸けという印象を与えます。
劇中では手術が原因で死に至るまでになってしまったのではなく、凪沙が一果を失ったことで自暴自棄になりケアを怠った事が原因ということがセリフで示唆されていますが、そういうことではないんです。
前半から凪沙にはお金がないこと、そのために日本で性別適合手術が受けられないことが繰り返し示され、その上で最後の手段としてタイに渡り手術を受け、最終的に死に至る。
この流れがよくないといっているのです。
あの場面をタイの医療技術、トランスジェンダー事情を知らない人が見たら「タイは技術的に劣っている」「性別適合手術は危険」といったイメージを持ってしまうのではないか。
これは果たしてリアルなのでしょうか。もちろん手術が完璧に安全なわけではないし、当事者にとって現実社会は地獄であることも事実であることは間違いないでしょう。
ただ過度なイメージを植え付けるのは現状をリアルに描いているとは言えるのでしょうか。
また、じゃあそれが仮にリアルだとして、その場合この映画は本当に美しいですか?
一果が中学を卒業し後に再開した時の凪沙は、僕の目には酷くて醜い存在として写りました。
幻想の中で夢を叶え、死の先で希望を掴むその姿を美しいとは思えませんでした。
現実と切実さを描いておいておとぎ話的な着地にしてしまうことに僕は恐ろしく感じました。
トランスジェンダーはおとぎ話ではありません。あなたの隣にも存在しているのです。
知るきっかけになればいい
泣いた、感動した、美しいという感想と同じくらい多いのが「問題を知るきっかけになればいい」というものです。
国民的なスターである草なぎ剛さんがトランスジェンダー女性の役を演じることで普段関心のない人の目にも触れることで可視化が進む。
感動を誘うような物語でも当事者の置かれている現状を伝えることに意味がある。
この映画が考えるきっかけになる。
今作がそういう映画であることは僕も否定しません。身体的、精神的な苦しみを逃げずに描こうとしていることは伝わります。
その上で、っていう話です。
一旦トランスジェンダー描写が現実に即しているかどうかは置いておきます。
置いておいた上で、トランスジェンダーを知るきっかけになったっていう人に聞きたいんですけど、これがリアルかどうかを調べてみました?
本当にこんなんなのかな?と一瞬でも思い至りました?
今まで関心がなかったっていう人に聞きたいんですけど、トランスジェンダーって聞いてどんな見た目を思い浮かべます?草なぎ剛さんの見た目以外で想像してみてください。
しましたか?じゃあその人はどんな人ですか?どんな性格でどんな暮らしをしていますか?
女装している男性を思い浮かべませんでしたか?
スタバでわいわい友達と喋っている様子を思い浮かべた人はいますか?
はい、それです。
現実がセクシャルマイノリティに厳しい世の中で、当事者がカムアウトするのも難しい場合、多くの人の周りにはセクシャルマイノリティの人はいないわけです。
じゃあどうやって学ぶのかというと、みんなが散々言っている「フィクションから学ぶ」ですよね。
とすればフィクションの中のセクシャルマイノリティがいつまで経っても悲劇を背負わせられるステレオタイプな描かれ方だった場合、可視化されたとしてどうでしょう。それは時代に即していると言えますか?
これはトランスジェンダー俳優にトランスジェンダー役をやらせろという主張にも繋がってきます。
この主張はハリウッドを中心に提起されている主張ですが、これは何も男性に女性役をやらせるな、女性に男性役をやらせるなと言っているわけではありません。
あえて乱暴な言い方をしますが、現実世界では女性と寸分違わない見た目をしたトランスジェンダー女性がたくさんいます。トランスジェンダー男性にしても然りです。
なのに映画・ドラマでは必ずと言ってよいほど男性俳優がトランスジェンダー女性を演じ、またそれは女装した男性といったような見た目をしています。
トランスジェンダーの俳優だってたくさんいるのになぜそうなるのか。
やはりそれはその方が「ウケが良い」からです。
その方がウケが良いから、わかりやすいから、売れるからといった理由で実際にいるトランスジェンダー俳優の人たちの機会が奪われていたわけですね。
そしてそういった配役は観客に誤ったトランスジェンダー像を植え付けることにもなります。
それはトランスジェンダーは女装した男性という認識ですよね。
トランスジェンダーはトランスジェンダーである前に、女性・男性であり人間です。
トランスジェンダー女性として生きてるわけではない、女性として生きてるのです。トランスジェンダー男性として生きてるわけではない、男性として生きてるのです。それを誤解させたまま可視化させてしまう。
そういったことが問題だと言っているのです。
だから、もう分かっていると思いますけど、本人のジェンダーに合った役だけをやらせろという極端な話ではなく、まずは理不尽に奪われてきた機会を取り戻そう。機会の不平等をなくそうよ。それから役の多様性実現しようよっていうことですね。映画は全ての人にとっての娯楽であって文化なのだから。
話を戻しましょう。
草なぎ剛さんがトランスジェンダー女性役を演じることには何も問題はありません。より多くの人に観てもらえることも良いことでしょう。けれどもそこで生まれたトランスジェンダー像をスタンダードにするのはよくないということです。
日本はまだまだ可視化が重要な段階だというならば尚更です。
フィクションが社会に与える影響というのは思っているよりも大きいものです。それは素晴らしい演技をすればするほど、多くの人に注目されればされるほど。
知るきっかけになるんだからいいという問題ではないのです。可視化したことで生まれる偏見や攻撃もあります。
そもそも、「第一歩になる作品」っていつから言ってるんでしょう。マイノリティがテーマの作品が出るたびにそれ言ってませんか。一歩目ばかりで全然二歩目にいかないじゃないですか。
そこを考えずにこの映画に感動して有難がっているうちは日本はいつまで経ってもジェンダー問題が解決することはないと思いますよ。
言ってることとやってることのちぐはぐさ
そしてこの作品の最大の問題点は監督の意識と作り上げた作品の乖離にあると思います。
いくつかインタビューを読んでいると、監督は実際にトランスジェンダーの人からヒアリングしていたり、トランスジェンダー指導として乙女塾の西原さつきさんらを起用するなど誠実に描こうとする姿勢は見えます。
それをちゃんと映画に反映していることも前半部分をみればわかります。
なのにどうしてあんな後半になってしまったのか......
意識と作品間の乖離は劇中の4つのセリフから考えるとわかりやすいでしょう。
①「男に消費されちゃ負けなのよ、私達みたいのは」
②「流行ってるよね、LGBT」
③「なんで男の海パン履かなきゃいけないの?なんでスクール水着じゃないの?」
④「私、女になったから、母親にも慣れるのよ」
僕が思う今作を語る上で非常に大事なセリフが以上の4つです。これらのセリフが伝えようとしているメッセージはみんなわかっていると思うので僕からは説明しません。
なので早速本題にいきましょう。
まず①、②のセリフについて。
①はスナックで凪沙が一果にかけたセリフです。②は凪沙が就職活動中に面接官のおじさんが放った言葉です。
このセリフが意味するところを念頭に置いた上で、映画全体の構図、観客の反応、内田監督の件の発言を思い浮かべてください。
不思議ではありませんか?
次に③のセリフです。
これは劇中で2度発せられ、そしてラストシーンに直接繋がるため映画の中でかなり重要なセリフであることがわかります。
凪沙が男性ではなく女性だということをはっきりと示すセリフでもありますね。
ここまではっきりと意識した上で、監督はある2つのシーンを撮っているのです。
それは凪沙が実家に一果を取り戻しに行くシーン、海でスクール水着を着て遊ぶ女の子の幻想を見るシーンです。
前者のシーンでは、凪沙は性別適合手術をし一果を迎えに行きますが、家族に「化物」と罵られ、揉み合いの末に凪沙の意志とは反して胸が露わになってしまいます。
ここで考えてほしいことは凪沙は女性であるということです。
普通、映画において胸が露出している女性が映される場合、レイティングはPG12区分以上になる。
しかし今作のレイティングはG区分。全年齢対象です。
凪沙は女性であるのになぜか.......
その答えは明白です。
凪沙は男であると捉えられているからです。草なぎ剛さんは男なので胸が露わになってもPG指定にはならないのでしょう。
おそらくここに疑問を抱いた人は少ないんじゃないかと思います。
それはまさしく、先述したトランスジェンダー女性=女装した男性という印象が社会に浸透している証拠です。
「なんでスクール水着じゃないの?」というセリフはそこに繋がってくるわけです。
凪沙からしたら自分だけ上半身が裸なのはおかしいですよね。自分も女性なのに。
それをわかっているはずなのに凪沙を女性として扱っていないシーンが撮れるのはなぜなのか。
④のセリフの問題点は、さっきから何度も言っている社会へのイメージの問題です。
あのセリフは物語の流れを鑑みれば追い詰められた凪沙の最後の手段であったことはわかります。今のままだと自分は一果の保護者にはなれない。ならば身体も女になれば母親として認めてもらえるはずだという発想の故ですよね。あの段階で凪沙に冷静な思考は出来なかったのでしょう。
問題はその展開自体、セリフ自体ではなく、その後に全くケアがないことです。
ここでは女性性=母性という、それこそ今の社会にはそぐわない性的バイアスを強めること、そしてやはりトランスジェンダー女性は女性ではないという認識を強める可能性を孕んでいます。
凪沙という人間を考えるのならばこの考え方は否定するべきでしょう。男性俳優にトランスジェンダー女性の役をやらせているのなら尚更です。
現実は悲惨なのだから悲惨な物語を作るということにしても、そこの否定はできるはずだししなければならない。
だが今作はそれをしていない。それどころか凪沙は最後まで女性にはなれなかったという描き方をしている。それは海での幻想シーンが明白に語っています(さらに問題なのは今作を観たシスジェンダーの人たちが「私には女性に見えた」「私は女性だと認めている」と言ってしまうことにあるのだが)。
当事者のリアルがよく描けているのに当事者に全く配慮がない。矛盾しているように見えるが、これこそが可視化による問題点なのです。
表面的に理解しただけで全てをわかった気になってしまう。
おそらく前半部のトランスジェンダーのリアルがよく描けているのは当事者に話を聞いたことや、西原さつきさん、山岸悠太郎さん、瞬さんのトランスジェンダー指導によるものでしょう。
そして内田監督はそれを取り込むのが非常に上手いし、映画を通してトランスジェンダーの存在を否定することもありません。さらに絵作りの巧さや役者陣の好演。素晴らしい音楽......
それなのに配慮に欠けた描写をしてしまうのは、表面的な理解で止まっているからでしょう。
セクシャルマイノリティが置かれている状況、苦悩や願いは話を聞いたり本を読めば理解できます。そうやって知見を深めるのは大切であるし、しようと思えば誰でもすぐに出来る。しかし、自分の中に染み付いた価値観を変えるということはすぐに簡単にできるものではありません。
頭では分かっていても心では自分たちが普通であいつらは異端という壁を作ってしまいます。なぜならその方が楽だから。
あなたたちは普通ではないけど認めてあげるよというスタンスの方が圧倒的に楽なのです。
逆にこれまでの【普通】が脅かされる状況は苦となります。
だから表面的な理解で全てを分かった気になってしまいます。
でもね、セクシャルマイノリティの人たちが幸せになったからといってあなたの日常が壊れることなんてないんですよ。
おそらく内田監督はシスヘテロの男性主体な社会の価値観から物事を捉えています。
それがあの配慮のない描写、そして配慮のない件の発言が生まれた原因ではないでしょうか。
僕たちが生まれてから今に至るまで享受してきた【特権】を手放すのは容易ではありません。けれどもそれを自覚しなければいつまで経っても先へは進めないのです。
僕だってそうです。油断すればきっと無自覚で無邪気な差別を行なってしまいます。今だって行なっているかもしれません。だから一歩目になるからと有難がっている場合じゃないんです。二歩目、三歩目に進むためにあんなのは美しくもなんともないと切り捨てなければいけないのです。
その他気になったところ
最後に今作を見ていて、トランスジェンダーの描き方とは別に気になったことがあったので記しておこうと思います。
それは中学生の扱い方です。
レッスン費のために「撮影会」のバイトを行うシーンや、親の精神的虐待、果てには自殺。
仮にこういうシーンを描くのはいいとしたって、演じているのは14歳、19歳と未成年の役者ですよね。ケアはちゃんと行なっているのでしょうか。
タバコを吸うシーンだってあれ必要ありました?あれがなくたってりんが親の見えないところで反抗しようとしているのは分かりますし、描くにしたって灰皿を映しておけばそれで十分じゃないですかね。実際に火がついていないからとかそういう問題ではないです。未成年の俳優にやらせているということの問題を指摘しています。
自殺だって後の感動を促す装置にしかなっていないようにしか思えませんでした。
影に隠れていますけどこれも結構な問題だと思いますよ......
最後に
ここまで読んでくださった方ありがとうございました。気付けば1万字を超えていました。
ですがまだ言い忘れていることがある気がするので思い出したら随時追記いたします。
僕が今作に批判的な理由がわかったでしょうか。
これが的外れなインテリ気取りが唸ってるだけと言われても構わないので伝えたかったことです。
マイノリティはいつまで「悲劇の存在」でなければいけないのでしょうか。現実がそうだからと悲劇のみを描き続ければ社会が先へ進むことはありません。
マイノリティはマジョリティの感動のための道具ではありません。彼らの人生はマジョリティを楽しませる娯楽ではありません。今日も明日もあなたの横で生きている人間です。
現実がそうだからと悲劇のみを描き続ければ、当事者と社会のズレは広がるばかりで未来へは進みません。
何度でも言いますが、この映画に感動し美しいと評し有難がっているうちはいつまで経っても日本のジェンダー意識が変わることはないですよ。