【感想・考察】映画『浅田家!』は誰かの不幸をこの世に残すことに対して逃げずに向き合った作品

こんにちは。本ブログは映画感想やクソ映画の沼について書いています。よろしくお願いいたします。


今回は映画『浅田家!』の感想です。


前回の記事で「ここからネタバレあります」と書いていたのに「ネタバレありって書け!ふざけんな!」と怒られてショックを受けたので今回は先にどんな人でもわかるように言っておきますね。


途中からネタバレあります。


前半はネタバレなしです。ネタバレに入る前にもう一度言うので未鑑賞の人は見逃さないでね。


『浅田家!』


映画「浅田家!」予告【2020年10月2日(金)公開】

監督:中野量太
脚本:中野量太、菅野友恵
企画・プロデュース:小川真司
原案:浅田政志「浅田家」「アルバムのチカラ」(赤々舎刊)
音楽:渡邊崇
撮影:山崎裕典
出演:二宮和也、妻夫木聡、黒木華、菅田将暉、渡辺真起子、風吹ジュン、平田満、北村有起哉、後藤由依良、池谷のぶえ、野波麻帆、駿河太郎、篠原ゆき子、松澤匠
配給:東宝

https://asadake.jpasadake.jp





完全に舐めてました......すみません......

もうホントすみませんでした!っていう気持ちでいっぱいです。正直「家族×震災×ジャニーズ......また人の不幸を出しにした感動映画か......いくらニノが出てるからって良い映画とは限らないからな!ケッ!」と思ってて期待していないどころか観に行くつもりもなかったんですよ。


ちょうど良い時間にやってるのが今作しかなかったから観ただけだったのですが、いやー良かった!


中野量太監督は『長いお別れ』や『チチを撮りに』は好きだけど、『湯を沸かすほど熱い愛』は倫理的にかなり問題のある作品だと思っていて、全面的に支持しているわけではないのですが、今作は誠実な印象を受けました。


不幸を出しにしているどころか、むしろ逆で”誰かの不幸を作品として残す”ということに逃げずに真摯に向き合った作品でした。


しかも誰が観ても”エンタメ”ってわかる作りになっているんですけど、エンタメゆえに与える影響をちゃんと考えていて、“エンタメ”という言葉に逃げていない。


二宮和也さんの演技も相変わらず素晴らしくて思わぬ良作でしたね。


ということでここからは良かったところ、それでも気になったところを具体的に書いていこうと思います。


なおネタバレ含みますので、未鑑賞の方で情報を入れたくない方は一度ブラウザバックしていただければと思います。観賞後にもう一度読みに来ていただけるとすごく嬉しいです。


この先も読んでくれる方、ありがとうございます。是非あなたの感想も聞かせてください。


では、よろしくお願いいたします。





家族はあくまでもモチーフ

今作で良いなと思ったのは、まず、“家族”をテーマに扱いながらも「家族は最高!!」というものにはなっていなかったところです。


僕は家族が大好きですけど「家族最高!!」っていう規範にはちょっと賛同できないのでそういう映画だったら褒めていなかったと思います。


あくまでも今作の主人公である浅田政志の好きだったものが家族だったというわけで、重要なのは“家族そのもの”ではなく、その人の“好き”という気持ちです。


政志が家族ではない若菜や亀を撮ることに夢中になっていたことがそれを表しているのではないかと思います。たぶんですけど、浅田政志さんは生きているもの、つまり“生”が好きなのであって、その中でも特に“家族”という存在が大切で好きだったということなのではないでしょうか。


だからこそ後半の葛藤にも繋がるんじゃないのかなと思います。


“家族”って大事なものの代表みたいな感じで描かれることが多いじゃないですか。「家族は大事にしなさい」とか「家族なんだから」という言葉よく聞きませんか?


でも家族が好きじゃない人や、そもそも”家族”という規範がない人もいるわけですよね。それが良いとか悪いというものではなくそういう人もいるっていう話です。


そういった人たちにも響く映画になっているかといえばちょっと微妙なところではあるんですけど、ただ本質的なメッセージは家族どうこうよりも「好きなものの肯定」になっていたんじゃないかなと思います。


実際、突き詰めて考えていくと人の好きなものなんてどうでもいいものですよね。自分の人生とは関係ないんですから。その最たるものが家族であって、政志が上京し出版社に持ち込みをした際にそれを突きつけられるわけです。


で、それって家族写真に限ったことではなく、映画そのものにも言えることで、特に『浅田家!』は浅田政志さんの体験談を通して彼のパーソナルな部分を描いた作品なのでまさに他人からしたらどうでもいい話なんですよ。


今作は作品そのものを一回その作品内で否定しているんですね。


でも政志のアルバムを良いと思ってくれる人は確かにいて、政志の好きが誰かの好きになり、賞を取るにいたるまでになりますよね。


それはそのまま、あなたの“好き”は誰かを動かす力があるというメッセージになり、またその“好き”は別に家族である必要はないわけです。亀でも友達でもパートナーでも良いんです。生き物でなくたっていい。


”好き”という気持ちの肯定。


そしてそれはまさに映画という媒体そのものの肯定にもなっていますよね。


ただ今作ではそこで止まりません。





誰かの不幸を記録すること

映画やドラマ、本などを作るということは、事件を風化させない、社会で迫害されている人たちの現実を伝える、そういう意義が込められているという側面もあります。で、程度の差はあれどそこには収入が発生しているのもまた確かで。


それはそれでもちろん大事なことなんですけど、ただそれは誰かの不幸の上に成り立っているものですよね。


いくらエンタメでも、いくら娯楽でもそういうテーマを扱った場合、そこには実世界で不幸になった人の存在があるわけです。


影響力があるからこその負の側面というのは確かにあって、それを無視した結果が、不幸を出しに使った感動ポルノや、製作者の配慮のない言動などです。


それから、いくら誠実さを持って作ったとしても、その背景に誰かの不幸があるということからは逃げられないわけです。


今作はそこにも真摯に向き合っていました。


政志は家族を撮ることで写真家としての道を見つけ、成功します。賞を取るまでは言ってしまえば“好き”をただ撮っていただけで、その“好き”がいつか失われるものだということは考えていません。


それを揺るがされるのが佐伯家の家族写真を撮ることになったときです。


政志はそこで病気と戦う子どもと出会うことで「死」を意識することになります。自分が撮った写真のせいで佐伯家が悲しむことになるのではないか、今後辛い気持ちにさせ続けるのではないか......


始めて「生」の裏にある「死」があるということに気がつくんですね。そして今まで自分が無邪気に“好き”を追い続けられたことは特別なことだったことにも気づきます。


時として他人を動かす力を持つ自分の“好き”という気持ちは負の方向に働くこともある。


つまりここで政志の写真家としての人生が一度否定されるわけです。


さらに追い打ちをかけるのが東日本大震災です。ここで政志は決定的に「死」と直面することになります。


「死」を記録することに向き合おうとするほど「写真の持つ力」を信じられなくなっていく。


被災地で出会った少女、莉子に家族写真を撮るように頼まれた政志が言った「撮れやんよ......」という言葉はその葛藤をすごく象徴的に表したセリフです。


震災の様子を撮るということはまさに「死」を記録に残す行為そのものであり、不幸の記憶を呼び起こさせるアイテムにもなるわけです。


なぜそれでも撮らなければならないのか、なぜ作品として世に残すのか。


その答えは写真洗浄、内海家の家族写真撮影に込められた二つの意義にあります。


1つ目は「記憶をこの世に残すこと」です。


これはまあみんなが思うことではないでしょうか。思い出を写真に収めることで、その人が生きた記録をこの世に残すという意義です。


子どもの頃のときの記憶はいつか忘れてしまうから写真に“残す”。


震災を風化させないために写真や映像を“残す”。


つまり過去の記録ですね。


写真洗浄のボランティアはまさにこっちの意義が強いですよね。


ただ政志はこれだけでは「写真の持つ力」を信じることはできなかったわけです。“残す”ことが人を傷つけてしまうのではないかと思っているの当然ですね。


で、重要なのが2つ目の意義です。


政志がそれに気づくのは父親の誕生日のために一度帰省したときです。


そこでかつて父親が写真を撮る姿が現在の自分に繋がっていること、カメラを貰い初めて写真を撮ったあの日からは未来はずっと続いていたことに気がつくのです。


実は写真には「過去を残す」という役割以外にも「未来を作る」という役割があったわけです。


それは言いかえれば未来への「希望」です。


佐伯家が家族写真を撮ったのは病気の息子を記憶しておきたかったからではなく、先に進むための「希望」が欲しかったから。


それに気づいたことで政志は内海家の家族写真を撮ることを決意します。


そして政志が出した答えが、写真の向こう側に莉子の父親を存在させるということですよね。


莉子の父親の写真が見つからなかったのはいつも撮り手側だったからで、政志はその想いを写真に存在させることにしたわけです。


不幸の先にある「希望」を生み出す。これが不幸を記録することに真摯に向き合った政志が出した答えです。





エンタメとして描ききったこと


では映画としてはどう向き合い、どういう答えを出したのか。


それは「エンタメとして描く」ことです。


映画前半は浅田家の日常をコミカルに描き不幸の匂いを一切出しません。


後半に入ってもガラッと作風が変わるわけではなく、前半のコミカルさは続いています。


で、大事なのはその後で、


コミカル調なのに、震災の様子はすごく丁寧に描いているんですよ。ニュースの映像もそうですし、瓦礫の再現などすごくリアル。


それからちゃんと震災による「死」を描いていて、さらにそれは不幸なものとして扱っているんですね。(だから当事者の方が今作を見るときには記憶がフラッシュバックしてしまう可能性があるので気をつけて欲しいんですけど......)


つまり、死ぬことを美化して「それでも彼らは幸せだった!」みたいな安易な解決に逃げていないんですよ。


だって、莉子があの写真の向こうに父親の存在を感じとれたとして、実際にはいないじゃないですか。


あのあとも莉子は何度も父親がいないことに悲しむことになるんですよ。


はっきりとこれはフィクションによる希望ですと示しているわけです。


政志の写真は物事の根本的な解決にはなっていない。たぶん何年も経てば莉子は政志の存在なんて忘れてしまいますよ。


でも、それが莉子にとっては、「幸せ」な未来への予感になっているわけじゃないですか。


それってまさに「映画の力」そのものですよね?映画に限ったことではないので「フィクションの力」と言ったほうが良いでしょうか。


エンタメとして描ききる意味とはそこにあって、今作だって不幸を描ききって感動させることだってできたんですよ。


でもあえてそれをやらずに「楽しい」面に比重を置いたのは不幸の先にある「希望」を信じているから。


まさに劇中で政志が出した「未来を作る」という答えに繋がるんですね。





最後に

たまたま時間が丁度良かったので観ただけだったんですけど、思わぬ良作に出会えました。


映画としてのクオリティという面では絶賛!ってほどの感想ではないんですが、今作の“不幸を描く”ことに向き合った姿勢っていうのは感銘を受けました。


実際に色々あるじゃないですか。難病だったり障害者だったり、貧困や災害、差別など......誰かの不幸の上に成り立っている作品って数え切れないほどあって、それでお金を稼いでいるっていうのもまた事実です。


そこに向き合うってことは自らの首を締めることにもなりかねないわけで、それでも逃げずに向き合うっていうのはすごく誠実だなと思います。


いや〜良かった。あとやっぱりニノはすごいですね。