映画『アンダードッグ』弱くても負けても無様でも負け犬にはなるな【感想・考察】

こんにちは。格闘技を見て強くなった気がしてる人から「お前の腕なら簡単に折れるわw」ってよく言われます。どう反応してあげるのが正解なのかわからなくていつも困ります。

このブログでは映画の感想を書いたり、あなたをクソ映画の沼に引きずり込もうとしたりしています。



今回は映画『アンダードッグ』の感想です。前編・後編まとめて書いています。



途中からネタバレありです。ネタバレに行く前にもう一度忠告しますので見逃さないでね。





『アンダードッグ』


11.27公開『アンダードッグ』予告編

監督:武正晴
脚本:足立紳
プロデューサー:佐藤現、平体雄二
音楽:海田庄吾
撮影:西村博光
照明:常谷良男
主題歌:石崎ひゅーい「Flowers」(Sony Music Labels Inc.)
出演:森山未来、北村匠海、勝地涼、瀧内公美、新津ちせ、水川あさみ、市川陽夏、柄本明、冨手麻妙、風間杜夫、萩原みのり、二宮隆太郎、熊谷真実、上杉柊平、
秋山菜津子
製作国:日本
製作:ABEMA、東映ビデオ
配給:東映ビデオ
上映時間:前編/131分、後編/145分



勝ちよりも負けを描いた映画


いやーボクシング映画の新たな金字塔来ちゃったかもしれないです。


展開はけっこうベタでリアル路線というよりは漫画よりの表現が多い作品なんですけど、他とは少し違うのが今作は勝つことを重点に置いていないんですよね。


【勝ち】を描いた作品は数あれど、ここまで徹底して【負け】を描いた作品はあまりないのでは......


よく“負け犬”という言葉は聞きますけど、じゃあどういう状態が負け犬なのかって話です。


ただ負けただけでは“負け犬”とは言われないじゃないですか。負け+αがあるわけで、ここに人生における大きななにかが隠されているんじゃないか。


今作はそのなにかを見つけるための映画なんですよ。


だから徹底して負けを描く。殆どの人間は負けた人間なんだから。


過去に日本ランク1位まで上り詰めるもチャンピオンにはなれず、今では若手ボクサーの噛ませ犬として扱われる末永晃(森山未来)。負け続けて無様な姿を晒し続けてまでも晃はボクシングにしがみつく。


大物俳優の2世として生まれ、中途半端な芸人として生きる宮木瞬(勝地涼)。金に群がるだけの友人に嫌気がさすもお調子者としてそいつらに取り入ることでしか自分を守れない人生を過ごす。テレビ番組の企画でボクシングに挑戦し、その魅力にはまり込んでいくもやっぱりチョケて馬鹿にする人たちに迎合してしまう。


二人とは対象的に天才ボクサーとしてデビューする大村龍太(北村匠海)。愛する人と結婚し子どもも生まれ順風満帆な人生を歩んでいるように見えるが、彼もまた負け犬のひとりだった。


この三人が底辺から這い上がるっていうのが今作の大きな流れではあるんですけど、なんとボクシング映画であるにもかかわらず肝心の試合シーンが全然カッコよくないです。迫力もないし正直ダサい。特に前編。


あと3時間半以上も観てられるかなと不安になるほど。


それが全部伏線だったと気づくのは前編のクライマックス。


ダサさがカッコよさに変わる瞬間。大号泣......のはずなのにあれ?ちょっとまって全然泣けねえ!


そっか、そうだよね。僕はもうそっち側を知ってしまったんだもんね。


3人の主人公を通して負けるということは何なのか。弱くても無様な格好をさらして得られるものなんてあるのかを問うた傑作。


前後編合わせて4時間半強もありますけど、僕は全然気にならなかったし超おすすめです。


ということでここからはネタバレありで話していきます。


前編も後編も話すつもりなのでこの先はできれば両方見た上で読んでいただければなと思います。


ネタバレが嫌だという方はここでブラウザバックしてください。


この先も読んでくれる方は是非ともよろしくお願いいたします。あなたの感想も聞かせていただけると嬉しいです。




負けを受け入れることと負けに適応することの違い


さっき書いた通り、この映画ボクシングの場面が全然カッコよくないんですよね。


迫力もないしすごくダサい。


これやばいんじゃないかなーと思っていると急にその評価がひっくり返ることになるんですよ。


それは前編のクライマックスの末永晃VS宮木瞬戦です。


観た人はわかると思いますけど、今までどんなときでもふざけてお調子者の弱い人間の宮木が試合ではどんなにボコボコにされても立ちあがって勝とうとする姿にめちゃめちゃ感動するんですよ。


じゃあそもそもなぜダサいのかという話ですけど、末永と宮城っていうのは“負け”に適応してしまった人たちなんですね。


今の状況から抜け出したいと漠然と思っているけど、そのためにはどうすればいいのかを考えることはしないし行動もしない。


さらにポイントなのが、それでいて“負け”を受け入れていないところです。


なにも考えていない、なにも行動しないくせに自分はそのうち変われるという気持ちだけ持っていて惰性で生きていく。


特に末永晃はそれが顕著で、過去の栄光にすがり家族を失ってもなおボクシングにしがみついているが、かといって復活を目指してストイックに努力を続けているわけでもなく、なんとなくの愛着となんとなくの習慣で続けているに過ぎません。


でももう一度ボクシングで輝ければ家族も戻ってきて人生も上手く行くとは思っているんですよね。


ようするになんにも考えていないんですよ。


今のままでは駄目なのはわかっているけど、俺はボクシングが得意で好きだから大丈夫だろうくらいにしか考えていない。


晃は全然喋らないですよね。あれは何も考えていないからです。普段なにも考えていないから咄嗟のときに言葉が出てこないんですよ。


それから顔もすげー虚無の表情してるじゃないですか。森山未来の演技が半端ないところなんですけど。


彼は完全に“負け”に適応しているんですよ。


性行為にしたってそうで、明美とSEXするのも覗きオナニーするのも彼女に惹かれているとかどうよりも目の前にある欲望に飛びついているだけ。


あの性描写に彼の意思は介在していないんですよね。


妻の佳子に対してもそう、引き止めるのは好きだからとかじゃなくて過去の良かった思い出に縋っているだけ。


もちろん全く好きという気持ちがないというわけではありませんし、明美に対しても惹かれている部分はあるけどそれよりもっていう話です。


極めつけは宮木との試合ですよね。


それまでは惰性ながらもプロボクサーとしての一抹のプライドは持っていたんですよ。それが唯一ギリギリのところで自分を生かしている道だった。


また例え負けようともその一抹のプライドっていうものに感動を受けていた人もいました。


けれども宮木との試合でそれすらも失ってしまうんですよね。


まあ失うというより自ら捨てたですね。


“負け”を受け入れることと“負け”に適応することは同じようで全く違うことなんです。




【捨てるプライド】と【守るプライド】


一方で対戦相手の宮木はどうかいうと、やはり負けに適応してしまった人間ではあるんですよ。


お金に群がるやつらを友達と呼んでヘラヘラおちゃらけて自分を保ってる。


そんな状況に嫌気が指しているけど、それ以外の生き方を知らないから結局自分でその道を選んでしまう。


僕が中学生のときのクラスメイトにまさにこんな人がいて、その彼を思い出して宮木のエピソードは見ててちょっと辛かったですね。


彼はいまどうなってるんだろう。


まあそんな話は置いておいて、やっぱり自分が自分であるためのプライドを捨ててしまってるんですよね。


だから人生をかけた試合の最中でもふざけてしまう。


前編っていうのは宮木がこの捨てたプライドを取り戻す物語なんですよ。


ここで大事なのは、人間には【守るべき“プライド”】と【捨てるべき“プライド”】っていうのがあるということです。


守るべきプライドっていうのは、自分が自分であるための誇りです。


自分はこれが好きなんだ!とかこんな夢があるんだ!とかそういうことです。


末永晃で言えば、ボクシングが好きだという気持ち。宮木瞬で言えば人を笑わせられる人になりたいとか。


これからの自分を形成するものに対するプライドです。


そういう気持ちは捨てるべきではないんです。


逆に捨てるべきプライドはなにかっていうと、過去の自分から生まれる自尊心です。


学生時代は人気者で輝いていたとか、大会で決勝戦までいったとか、こんなにお金を稼いでいたとか。


これまでの自分を形成してきたものに対するプライドです。


これは自分の現状を変えたいって思っている時には捨てないといけないんですよ。


で、それができたのが宮木瞬、できなかったのが末永晃。


宮木瞬という人間を形成してきたものっていうのは、お金で手に入れた交友関係、二世タレントとして入った芸能界、いじられキャラとしておちゃらけることで得られたポジション。こういったものですね。


そしてこれからの宮木瞬を形成するものっていうのが、ボクシングで末永晃に勝ちたいという気持ち、人を笑わせるためにお笑い芸人になったという意思です。


宮木はこれまで築き上げた自分を捨てて、これからの自分のために【末永晃に勝ちたいという気持ち】を守ったわけです。


自分の“負け”を受け入れて、負けに適応してしまった状況から抜け出すんです。


対して末永晃の今までを形成してきたものっていうのは、日本トップランカーとしてベルト戦まで上り詰めた栄光です。


これからの末永晃を形成するものっていうのは、ボクシングが好きだという気持ちと、そこから生まれた俺はボクサーだという誇り、そしてボクシングを続けるという意思です。


けれども晃が守ったのは過去の栄光で、彼を唯一繋ぎ止めていたボクサーであるという誇りの方を捨ててしまうんですね。


その結果、格下の宮木相手に中途半端な試合しかできず、試合には勝ったが勝負には負けた状態になってしまう。


そして色々な人たちから見放される。


それでいてなお自分の負けを受け入れずに名実ともに負け犬に墜ちてしまうのです。


かと言って、末永を批判できるかといえばそう簡単な話でもなくて......


頭ではわかっていてもいざ自分がその状況に追い込まれると簡単には決断できることじゃないんですよ。


だって、僕が言った捨てるべきプライドっていうものを捨てたら、生まれてから今日までの自分は否定されるということになるじゃないですか。


だから中々捨てられないし、それが自分が自分である理由だと思い込みたくなってしまうんです。


残酷なまでの宮木と末永の対比、じゃあ僕やあなたは......?




感動しているはずなのに......


この映画で感動する仕組みっていうのは至極単純で、底辺にいる人間が己の弱さを認めて這い上がる様を観客が自分とリンクさせるからです。


宮木がボコボコにされているのに何度も何度も立ち上がる姿に感動するのも、観客が宮木に自分の存在意義の肯定っていうのを託しているからです。


で、この宮木ってキャラクターの描き方が絶妙なんですね。


あなたもないですか?友達や先輩、上司とかに強く言えなくてヘラヘラしちゃったり、周りから思われている自分のキャラを演じたりすること。


または、この人たちとは合わないなと思っていても今いるコミュニティから外れてしまうのが怖かったり。


大なり小なり誰でも抱えているような問題を背負っているのが宮木なんですよ。


それから彼の場合は環境的な要因もあるじゃないですか。全部が全部自分のせいっていうわけではないっていう。


だから、宮木っていうキャラクターは観客にとって優しい負け犬なんですよ。すごく感情移入しやすいし、そういう人物が他人からどう思われるかなんてことは気にしないで自分のために戦うんですからそりゃ夢中になって応援してしまいますよ。


でもね、すごく感動しているはずなのに、イマイチ泣けないんです。


ゴリゴリの王道展開にゴリゴリに泣かせる音楽を流してくるのに泣けないんです。


なんで?頭では今自分が感動しているってわかっているのに心ではそれを拒否している。なんで??なんで???


ハッとする。今、僕の目に写っているのは宮木だけじゃない......


宮木と戦っている相手、そいつは自分がいままで認めてこなかった自分だ。


そうです。この映画の主人公が宮木だけだったなら僕は感動して良い映画だったねーで終わることができたんです。


でも違う。僕は末永と言う男をもう知ってしまった。


彼は観客にとって優しくない負け犬です。そんなわけはないと目を背けてきた自分が全て彼には詰まっているから。


そんな彼が、まさにいま未来へ進み出している若者を目の前に、捨ててはいけなかったプライドを捨て無様にも程がある姿を晒しているのです。


もう知っているから無視は出来ない。彼を無視すれば自分も同じ負け犬になるから。


それを末永晃という男の物語を見せられることで否が応でも突きつけられるのです。


そういうことで僕たちはまだ自分の中にいる末永晃と向き合わなければいけないわけですよ。それを思い知らされたところで前編は終わります。




男の幻想をばっさり切り捨てる後編


ここから後編の話になりますけど、後編から話の軸は今度は末永晃vs大村龍太にシフトします。


で、後編は、宮木戦で無様な姿を晒した直後から始まるんですけど、幕開けすぐにびっくりしたというか感嘆しまして、男が主人公の王道格闘技映画の型をいきなりぶち壊してくるんですね。


水川あさみ演じる奥さんにガッツリ見捨てられるでしょ。あれ最高です。


こいつはいったい何を言ってるんだと思ったそこのあなた、まあ聞いてくだせえ。


あのシーンにどんな意味があるかっていうと、駄目な自分を女性にケアしてもらおうなんて甘い考え許さねえからなってことですよ。


けっこうあるじゃないですか。主人公がすごいどうしようもないやつなのに、献身的に尽くしてくれる女性がいて、そのおかげで再起することができる展開。


無償の愛で男を救ってくれるのが良い女。






なわけねえだろ!っていうのがあのシーンなんですよ。


つまり、てめえの不甲斐なさはてめえで解決しろってことですね。


晃はそこを勘違いして、自分の力で立ち上がろうとせず、奥さんになんとかしてもらおうとしてるから突き放されたわけです。


自分のケアを自分でできないやつは負け犬からの脱却なんてできないんですよ。


それを初っ端で突きつけてくるので「これはとんでもない傑作になるのでは......!?」という予感がしたわけです。


それから、妻の佳子から「あなたは努力なんてしていない」とばっさり切られるじゃないですか。


あそこは反感を覚える人もいるのはないかと思います。


誰もみてないところで練習してたじゃん!なんにも知らないくせに!って思った人もいるのではないでしょうか。


でもあれは佳子の方が正しくて、悲しいことに晃のあれは努力とは呼べないんですよ。


なにも考えずにただやってもがくっていうのは努力じゃないんです。


“意思”を持ってもがくことを努力っていうんです。


だから晃の練習は努力ではない。


これをはっきり言ってしまうのはすごいですよ。そこに目を瞑った方が映画的には展開しやすいですし、観客も気持ちよくなれますからね。


でもそうしない。自分たちで退路を断つという作り手の覚悟を感じました。


その後も同じで、佳子にケアしてもらえなかったから今度は明美にいくけどそこでも突き放される。


一方で宮木や龍太には献身的に尽くしてくれる彼女がいますよね。


あれ?言ってることと違うじゃんと思ったかもしれませんが、実は全く矛盾していません。


というのも、宮木も龍太も自分の未来を自分の力で変えようとしていますよね。


デリヘル店長の木田も自分の力で現状を変えようとしていたじゃないですか。だから兼子(熊谷真実)が支えてくれたんですよ。


けど晃は......?


そういうことですね。この映画では、はじめから女性にケアしてもらおうとしている人には誰ひとりとして女性のサポートがないんですよ。


晃のお父さんも、龍太に足を潰された玄も同じです。


お父さんはあの生活空間を見れば典型的な家父長制で生きてきた人物ってことはわかりますし、玄にしても劇中では名言されていないけれど悪いことをしてきた人物なのは明らかですからね。


善良な市民が襲われて歩けなくなったわけじゃないんですよ。自分の行いが自分に返ってきたってだけなんです。


それを全て龍太のせいにして、自分と向き合うことをせずに母親や明美にケアさせてるから、劇中であいつが救われることはないんですね。


そうそう、だから木田や玄のエピソードって全然無駄じゃないんですよ。


まあこの辺は1月からAbemaプレミアムでやるドラマバージョンで詳しく判明するんじゃないですかね。




怒涛のクライマックス


で、そんな駄目に駄目を重ねたような晃が龍太との因縁を知ることで自分を自分たらしめるものはなんだったのかということに気づいて、負けを受け入れてく過程を描いたのが後編なわけですよね。


この龍太との因縁を知って自分と向き合ってからの展開がもう最高で......


ボクシング映画のテンプレど定番超王道特訓シーンをぶち込んでくるんですけど、前編から合わせて3時間以上も溜めにためてやっと負けを受け入れて前を向いたっていうのがあるから感動が何十倍にもなって涙が止まらないんですよ。


もう晃VS龍太が始まる頃には勝ち負けなんてどうでも良くなっている。


まさに前編から繰り返し発せられてきた、たとえ負けたとしてもそこに確固たる意思があれば人を感動させ影響を与えることができるというメッセージを身を以て体感している。


これぞ映画の持つパワーだ。


これを観てしまったら自分ももう逃げられない。逃げたら負け犬になってしまうから。


負けを受け入れることは自分の人生が否定されることなんかではなかったのです。


全てを受け入れて、全てを背負って生きていく。それこそが人生の肯定と未来への一歩。


晃は負け犬ではなくなった。次は僕たちの番だ。




おわりに


以上、感想でした。


負けを肯定する素晴らしい映画だと思います。


ボクシングのシーンがかっこ悪くてダサイって言いましたけど、それも後半になるにつれ動きが洗練されていってスピード感も増してめちゃめちゃカッコよくなっていきます。


この辺は撮影順とかも計算して撮ってるのかな。


演技でいえば、森山未来さん表情の演技が化け物ですし、水川あさみさんなんてもはや巧すぎて上手いと感じない境地に達してるんじゃないですか。


あと地味に素晴らしいなと思ったのが、宮木っていう芸人ボクサーのコーチをするのがロバートの山本さんっていう点。


あれロバート山本っていうのがめちゃめちゃ説得力ありません?


すごく良かったです。


1月からはAbemaプレミアムでドラマもやるみたいですね。ドラマ版は末永晃以外の人物をより深く描いているらしいのでこっちも楽しみです。


ではまた。