えっ!なにこれっ!やばいって!!
とんでもない大傑作だ......
今まで観た日本の恋愛映画・ドラマの中で一番好きかもしれない。2021年段階で24〜27歳くらいの人、ヤバイと思いますよ。ホントに共感とかのレベルじゃないんで。
まるで他人の日記を見せられているような感覚。なにも特別なことがない、なにも起こらない。
なのになんでこんなに尊くて愛おしいのだろう。それはきっとこの映画には僕だけの、あなただけの日記が綴られているからだ。
ごくごく普通の、でも花束みたいな恋をしたカップルの出会いと別れをサブカルチャーと共に描いた数年間の物語--
本日は映画『花束みたいな恋をした』のネタバレ感想です。
まだ観ていないよという方や、ネタバレが嫌!という方は一度ブラウザバックしていただいて、観賞後にもう一度読みにきてくれるとすごく嬉しいです。
この後も読んでいただける方、ありがとうございます。あなたの感想も是非聞かせてください。
『花束みたいな恋をした』
監督:土井裕泰
脚本:坂本裕二
音楽:大友良英
撮影:鎌苅洋一
出演:菅田将暉、有村架純、清原果耶、細田佳央太、韓英恵、中崎敏、小久保寿人、瀧内公美、オダギリジョー
目次
特別なことがなにもない恋愛映画
まずなにが良いってね、特別なことがなにもないのよ。まるで他人の日記を見せられているような感覚なんです。
主人公悲しき過去を背負っているとか病気だとか、そういう何かしらの枷がかけられている映画って多いじゃないですか。特に恋愛物は。
最近の作品だと『君の瞳が問いかけている』なんかはまさにですよね。
そういう作品が悪いわけじゃなくて、枷を作ることで社会問題に切り込んでいけるし、メッセージ性もより強くなる。ていうかそういう映画大好きだし。ただ、そればっかりだと、常に意識高く生きていかなきゃいけないのかなと辛くなってくるのもまた事実なわけで。
別にみんながみんな枷を負っているわけじゃないですよね。細かく考えていけばあるのかもしれないけど、映画になるような大きな枷を負っている人はそう多くないと思います。
僕もそうです。病気は患っていないし、不良だった過去もない。人を殺したこともなければ殺されそうになったこともない。両親は共に健在で仲も良いし、社会の中でまあそこそこやってる。
そういう人でも主人公になるんです。何も起こらないし、社会になにか影響を与えたわけじゃないけど、それでもこんなに尊く愛おしい物語ができるのだなと感動しました。
別れから描く物語
2020年というテロップとともに幕が上がると、カフェにいる麦(菅田将暉)と絹(有村架純)の姿が映し出される。
二人は一つのイヤホンを分け合って音楽を聞いているカップルを見て怒っている。
「LとRが揃って初めて音楽なんだ。恋愛も同じ、分けちゃダメ。」
しかしお互いが話している相手はそれぞれの恋人である。
教えてあげるといい席を立ち、お互いに気づく麦と絹。一瞬目があって席に戻る二人。
メインタイトルがでて、時代が2015年に遡る。
この冒頭でいきなり心掴まれましたね。
つまり今作は出会い、付き合いそして別れるまでを描きますよということを最初に提示するわけです。結末が最初からわかっている上でこれからの物語を見せられる。
あっ、これは予想していたような恋愛映画じゃないな......と思ってスーパーワクワクしましたね。
結果只では終わらない映画だったわけですけど。
リアリティとフィクショナル
始めに言った通り、この映画ってめちゃくちゃ日記みたいな映画なんですよ。
あの時はなにがあった、このときはこんなことがあった。それを繰り返して物語が進んでいくわけです。
でも、それのなにが面白いんだろうって感じじゃないですか?そんな知らない人の特に何かが起こるわけでもない日記を見せられたって「はあそうですか」としかならないでしょ。
なのになんでこの映画はこんなに心に響くのか。
それはリアリティとフィクショナルのバランスだと思います。
どういうことかというと、キャラの行動や生きる世界、これはすごくリアリティがあるんです。
それはさっき言った枷がないというのもそうですし、例えば今日こそ告白するぞと思いながら解散の時間を目前にしてしまうとか、夢と現実の間で折り合いをつけなければいけない瞬間とか。
それから劇中の時代を当時のサブカルとともに追っていくというのもそうですね。
君の名は。シン・ゴジラ、ゴールデンカムイetc......
彼らは自分と同じ世界を生きてきたという感じがすごくするわけです。
ただそれだけじゃやっぱり他人の物語なんですよ。
じゃあどうやったらこの映画が知らないやつの日記から自分の日記に変わるのか。
それがフィクショナルなセリフ回しです。
今作のセリフってどこか作り物感があるというか、すごく詩的なんですよね。
なんというかこう、僕たちが普段思っているけど口には出さないようなことがセリフとして語られるから、そこに完璧なリアリティはないけれど、まるで自分たちの代弁者であるような気がするんです。
これで麦と絹が赤の他人から自分のよく知っている人物に変わる。さらにさっき言ったサブカル関連がキーワードとして頻繁に出てくるというのも、ただ出しているんじゃなくて、二人の生活に根ざされていて、物語性のなかにちゃんと組み込まれているんです。
このリアリティとフィクショナルのバランスが絶妙すぎるので、彼らの生活を自分の生活に置き換えて観ることができるんですね。例えばゴールデンカムイを読んでいなくても、その当時自分が読んでいた漫画に置き換えることができるし、押井守を知らなくても自分の趣味に関するレジェンドに置き換えることができる。
とにかく思い出の互換性が高すぎるんですよ。
僕は麦と絹のような恋愛はしたことないですよ。終電逃して知らない人と飲みに行くとかないし、あんな呼吸のタイミングまで同じようなバチバチに感性が合う人にあった事もない。でもした事ある気がしてくるんですよね。
いや、これ僕だけじゃないと思うんですよ。知らないはずなのに、あれこの光景知ってるぞ......となりませんでしたか。共感とも少し違う。自分なんです。僕がドンピシャで同年代っていうのもあるのかもしれないですけど、言葉そのままの意味で自分なんですよ。
正確に言えば僕たちの記憶が麦と絹の記憶と完全に結びついちゃっているんですよね。目に見えている景色を脳内で別の景色に変換してしまう。
しかも映画を観ている間はそれに対して違和感もない。超怖くないですか。
そんな状況を作り上げて幸せに浸らせたあとで、あの究極に現実な展開に持っていくわけじゃないですか。花束はいずれ枯れるんですよ......やべーってこの映画。
100点満点......なの?
でね、なにが恐ろしいってね、この二人の恋愛って、誰もが100点満点の理想に挙げるような恋愛なんですよね。
お互いの考えていることが手に取るようにわかって、というかわからなくても同じ考え方をしていて、趣味も感性もバッチリ合う。一緒にいることが何よりも楽しい。
最高じゃないですか。こんな相手がいたら絶対に別れないし、生涯を共に過ごすだろうと。
でも上手くいかないわけですよね。あ、ここまで相性完璧な二人でもほんの一つのボタンのかけ違いで修復不可能なほどにダメになってしまう。
いやそうじゃない、最初から100点満点なんかじゃなくて、感性が全く同じなわけがなかった。
たまたま同じ靴を履いていて、たまたま同じお笑いライブのチケットを無駄にして、たまたま映画の半券を栞にするタイプだったけど、ガスタンクはそんなに好きじゃなかった、ミイラ展はそんなに唆られなかった。でもいつからか全てを同じにしようとしていた。
そこなんですよね。麦と絹っていつの間にかお互いの好きに自分の好きを合わせに行っているんでよね。それをわかりやすく象徴しているのがガスタンクとミイラ展。映画の下りはまたちょっと意味合いが違うかな。
好きって言ってみたものの......っていう。
それが失う恐怖によるものなのか、カルチャーを帯びていたい欲求によるものなのかはわかりませんが、いずれにせよカルチャーを享受している自分に安心感を覚えるんだと思います。で、たぶん無意識。
それに気づかずに、あるいは目を逸らしていると、些細なすれ違いが次第に致命傷となっていくんですね。運命の人に出会えれば大丈夫だなんて思っている人に痛烈な打撃を喰らわせ現実を突きつけてくる後半パート。
特に麦の就職後の変わり様は見ていてかなり辛かった......プライベートに仕事が侵食してくるあの感じ、まさに今体験しているんですよ。僕は二人と同年代の25歳なので他人事にはどうしても思えなくて。
自己啓発本を読んでいる麦を見て絹が「あっ......」って顔をするシーン。もうやめてくれえええ!ってなりましたもん。あのズレが生まれてしまったらもうお終いなんですよね。結婚したから変わるものでもない。ていうか結婚してうやむやにしてはいけない。
別に麦の選択が間違っているわけではないんですよね。自分が自分である理由というのがカルチャーを享受している瞬間から、仕事で頼られている瞬間に変わっただけのこと。
でもそれって僕含め、多くの人が認めたくない現実でもあるんですよね。
そっちにいかない様になんとか保っている自分が壊れそうになる感覚。映画を観ている時だけは忘れていたことが一気に押し寄せてくる様なあの感覚。
まずは5年働いてみてからなんて言われているうちに今の自分は跡形もなく消え去ってしまうのではないかという恐怖。
なりより怖いのがそもそも自分は何が好きだったんだ?ということ。
僕たちは麦が仕事人間になってしまったことに恐怖を抱いているんじゃないんです。理想と現実の折り合いの付け方にグサグサ来ているんじゃないんです。
もっと手前。
グーグルマップに自分が写っていて喜んでいたあの時、ラーメンブログを書いていたとき、天竺鼠のライブチケットを無駄にしたとき。
そこからなんです。
そもそも麦と絹は個々のカルチャーをそこまで愛しているわけではなかったんだと思うんですよ。
サブカルチャーの波に漂っていたいだけ。
だって、麦と絹って付き合ったあとに天竺鼠のライブ二人で行ってました?
付き合ってからも絹ってラーメンブログやってました?
そういうのめちゃくちゃありませんでしたか?
僕が見逃していただけならごめんなさい。その場合は指摘してもらえると助かります。
とにかく、この映画が突きつけてくる現実って社会人になってどうとか、夢と生活どっちをとるかとかそこじゃなくて、そもそもあなた本当にラーメン好きなの、天竺鼠好きなの、イラスト好きなのってところなんですよね。
たまたま麦はサブカル以外で生きがいを見つけられた。絹は現状の仕事のからそれを受け取ることはできなかった。代わりにはならなかった。
ただそれだけのことなんですよね。高尚な思いがどうとかじゃない。
映画好きでいたい、音楽好きでいたい、イラストネーターと名乗っていたい。そこを刺してくるからすごく辛い。
これこそが僕たちが見て見ぬ振りしてきた現実なんです。
花束みたいな恋をした
ただね、あの時食べたラーメンはたしかに美味しかったじゃないですか。あの映画は面白かったじゃないですか。イラストネーターとして初めてお金を稼いだときは嬉しかったじゃないですか。
そういった経験や感情は、本人がどんなに変わろうとも消えないしなかったことにはならない。
あの人は運命の人ではなかった。いや違う、あの時あの瞬間は確かに運命の人だった。だって今でもあの時聴いた音楽、あの時観た映画、あの時名前を知った花が今でもあの時の映像と共に刻み込まれているから。
あれは確かに花束のような恋だった。花はもう枯れてしまったけれど確かにそこにあった花の美しさを忘れることはない。
それに気づいたのが別れ話をしているときのファミレスのあのシーンで、散々グッサグサのボコボコにしてきたくせに最後は全部肯定してくれる。
だから号泣してしまうんですよ。
このタイトル回収ずるいよ......
もう街ゆくカップルたちの悪口言えないじゃん。僕の人生も肯定されちゃうじゃん。
なんだよ、最高かよ。