映画『かそけきサンカヨウ』感想。(ネタバレはしていませんが、気になる人は鑑賞後に読んでいただければと思います。)
この映画には、モテる女子の悪口を言って連帯感を強める女子グループはいない。
この映画には、強さと男らしさを押し付けてくる男はいない。
この映画には、主人公の生活を壊す新しい家族も、子どもに大人の代わりを強制させる大人も、正しさを押し付けてくる人も誰もいない。
儚く、今にも消えてしまいそうな、幽き想いに寄り添ってくれる映画だった。
幼い頃に母が家を出て、ひとりで暮らしを整えられるようになっていった陽は、帰宅してすぐに台所に立ち、父とふたり分の夕飯の支度にとりかかるのが日課だ。
ある夜、父が思いがけないことを陽に告げる。「恋人ができた。その人と結婚しようと思う」
ふたり暮らしは終わりを告げ、父の再婚相手である美子とその連れ子の4歳のひなたと、4人家族の新たな暮らしが始まる。新しい暮らしへの戸惑いを同じ高校の美術部に所属する幼なじみの陸に打ち明ける陽。実の母・佐千代への想いを募らせていた陽は、それが母であることは伏せたまま、画家である佐千代の個展に陸と一緒に行く約束をするが・・・。 映画『かそけきサンカヨウ』公式サイトより引用
今作では、日本の映画やドラマでよく見てきた設定が数多くでてくる。
母親の代わりに、父親をささえる女子高生。突如できた新しいお母さんと血の繋がらない弟妹。仲良しグループの中で起こる三角関係。etc......
ただ、そのどれもがいままで見てきたものとは異なる描き方がされている。
まず目を引くのは、主人公の陽が属する仲良しグループである。
男2女3のグループなのだが、彼らの会話の中にはよくある中高生のテンプレ会話が一切ない。
同級生の悪口を言ったり、下世話の話をして盛り上がったりはせず、ただ近況を報告しあったりなど他愛もない会話をしているだけ。陽キャだ陰キャだなんて微塵も気にしていない。
話が少しそれるが、僕は男女の友情は成立するのか論が好きじゃない。
異性だったら誰にでも性愛感情を抱くわけじゃないし、恋愛が全てじゃないんだから成立するに決まっている。というか、恋愛関係になろうとセックスをしようと本人同士で納得しているのであれば友情は成り立つと思っている。他人が決めることじゃない。
上手く言語化ができないが、そういった昔から持っていた僕の考えが、彼らを通して映像化されていたような気がした。
陽は仲良しグループ内の陸を好きになるし、同グループに属する沙樹も陸へ好意を持っていることがほのめかされる。
でも、陸を取り合う対立構造は出てこないし、恋愛が勝ち負けで描かれることもない。
だから、友人を好きになったことで友情が消えることもないのだ。
映画そのものとしてはここはたいして重要な部分ではないのかもしれないが、僕にはここがすごく刺さった。
ステレオタイプに囚われない描かれ方というのは、他でも随所にみられる。
例えば、陽の前に現れる父の再婚相手をその連れ子。これを聞いて多くの人が思い浮かべるのは対立ではないだろうか。
一般的なイメージとしては、新しい家族を受け入れられない葛藤をメインの軸に持って行って、子どもが大人になる姿を描くみたいパターンだと思う。
もちろん陽にもそういった戸惑いや葛藤は描かれる。
しかし、今作ではそこをメイン軸にすることはなく、もっと先にある部分へと迫っていく。
父親の再婚相手の描き方にしても、普通ならもっと厄介な人物として描きそうなところを、たしかに完璧ではないが、陽をひとりの人間として尊重し、愛そうとする人物として描かれている。
人間は対立しなくとも成長できる、成長とはなにかを捨てることではないと気づかせてくれる。
今作の登場人物は、これまでの今泉作品同様に完璧な人間じゃない。どこか弱さを抱えて生きている。
弱さは自分を悩ませ、苦しめる。だから人は弱さを塗りつぶし、強くあろうとする。
弱さとは曖昧さであり、曖昧であることは怖い。
だからどうにか言葉に、形にしようとする。
しかし、今作では曖昧さを隠さない。言葉にできない感情を言葉にしないままに表現する。
過去の今泉作品と比べても、今作はそこがずば抜けている。
役者を信頼して、長回しで無言の時間を流し続けることも厭わない。
だから、決してわかりやすくはない。はっきり答えを出してはくれない。
けどそれでいい。人生はわかりやすくないから。なんでもかんでもはっきりさせる必要なんてないから。
ステレオタイプから外れるということは、人々が思い浮かべる人物像から外れるということ。つまりこうじゃなきゃいけないという思い込みから解放されるということなのである。
そこに自分らしさがあり、そのために今泉監督作品の登場人物たちは弱さを受け入れていく。
弱さ(曖昧さ)を受け入れると、今にも消えてしまうように感じるかもしれない。でもあなたの存在は消えない。儚く仄かでもそこに存在する限り、私達の人生は美しいのである。
最後に、今作で最も特筆したい点について書く。
それは、“大人になること”についてである。
僕は、子ども(特に女子中高生)が親の代わりとなって家事をしてたりする状況を絶賛して感動する風潮がすごく嫌だ。
大人になろうとする子どもを否定はしないけれど、なんで大人がそれを強制させてしまっている状況を是としているのかが疑問である。
この映画内でも陽の父親は、娘に家事をさせている。
それでいいという娘に甘え、彼女が抱える悩みや苦しみの本質を見ることができていなかった。
けど、それは彼の過ちであり弱さであることはちゃんと示される。
子どもが大人になるために必要なのは、子どもが子どものままでいられる環境ではないか。
甘やかせということではない。
僕たちがそうだったように、大人が強制しなくたっていずれ子どもは大人になる。
ならば大事なのは、自分自身で何かを思い、何かを考えながら大人になっていくという過程である。
大人が道を狭めて、成長を強制すれば、子どもは自分を隠すようになる。
大人が好きな色で自分を塗りつぶして、場合によっては壊れる。
サンカヨウは決して完璧な花ではない。花に対して葉がものすごく大きい。どっちかといえば不格好である。
それでもサンカヨウは美しい花と称される。
子どもが子どもでいられる環境とは、子どもが自身の弱さを素直にさらけ出せるか否かということである。
そのためには大人が弱さを見せる必要がある。不格好でも美しいのだと。
今作の主人公である陽と、第二の主人公ともいえる陸は、共に自分に素直になれない人物である。周りに気を使い、そして傷つく。
彼らをそうさせたのは、まぎれもなく彼らの親である。しかし、彼らの心を溶かすのもまた彼らの親なのだ。
大人が子どもに自身の弱さを見せたとき、子どももまた素直になれる。
そうして彼らが、弱さを抱えたまま大人になろうとする姿は、感動的なシーンではなくとも、自然と涙が出てくる。
最初に書いた、友情の描き方や、言葉にできない思いを言葉にしないまま表現する方法、そして子どもが大人になるということについてなど、僕がずっとなんとなく思っていたことの全てが今作に詰まっていて、まさにto meな映画だった。
『かそけきサンカヨウ』
監督:今泉力哉
脚本:澤井香織、今泉力哉
原作:窪美澄「かそけきサンカヨウ」「水やりはいつも深夜だけど」(角川文庫)所収
音楽:ゲイリー芦屋
撮影:岩永洋
主題歌:崎山蒼志「幽けき」(Sony Music Labels)
出演:志田彩良、鈴鹿央士、井浦新、石田ひかり、菊池亜希子、中井友望、鎌田らい樹、遠藤雄斗、石川恋、梅沢昌代、西田尚美etc...