映画『N号棟』解説レビュー なぜ考察体験型ホラーと謳われるのか。

卒業制作の映画撮影のために、岐阜県にある幽霊団地と呼ばれる廃墟へロケハンに行く大学生の啓太(倉悠貴)と彼女の真帆(山谷花純)、そして興味本位でついてきた啓太の元カノ史織。現場へ到着する一行だったが、廃墟だったはずの団地には多くの人が住んでいた。


住民に招かれ団地内に足を踏み入れる三人だったが、すぐさま怪奇現象に襲われる。突然の怪奇現象にパニックになった団地で住人の1人が飛び降り自殺をしてしまう。


しかし怪奇現象が収まると何事もなかったかのように日常へと戻る住人たち。明らかにおかしいその様子に3人は不信感を覚えすぐさま帰ろうとするが時はすでに遅し。


ひとり、またひとりと団地に飲み込まれていくなか、なんとか正気を保つ史織。一体何が起こっているのか、真相を突き止めようと彼女は団地の外れにある倉庫へと向かうのだったが……


『N号棟』
2021年製作/103分/日本
監督:後藤庸介
脚本:後藤庸介
出演:萩原みのり、山谷花純、倉悠貴、筒井真理子、諏訪太朗、赤間麻里子、岡部たかし

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観る者の価値観を揺さぶるジャパンフォークホラー


あー幽霊団地ね。はいはい。もうこういう系で面白い邦画ホラー作るの無理じゃね?なんて内心小馬鹿にしながら観にいったら、なんとまさかのゴリゴリのフォークホラーでございました。


ジャンプスケアは一切なく、昨今よくあるご丁寧に全部説明してくれるおかげで興醒めするということもなくて非常に良かった。


今作は「考察型体験ホラー」と謳われているために誤解しがちだが、“考察”とは劇中で起きたことの真相に対して言っているのではなく、作品が提示したテーマに対して言っている。


“死“とはなにか?それは観た人の経験や価値観などで如何様にも変容する。そして作品内としての答えも出すことはない。その末に出てくる結論は“わからない”である。考えれば考えるほど“生きる”とはなにか“死ぬ”とはなにかがわからなくなっていく怖さを描いた映画だ。

『ミッドサマー』との共通点と大きな違い


カルト的集団の中に若者が取り込まれていくホラーと聞けば、多くの人が指摘する通り『ミッドサマー』を彷彿させる。ただ、今作と『ミッドサマー』の違いは集団の描き方にある。


『ミッドサマー』のホルガ村は紛うことなきカルト宗教団体として描かれていたのに対し、『N号棟』の団地は精神性はカルトだが、宗教団体としては描かれていない。前者は積極的に外から人を招き騙そうとしているのに対して、後者はトップを含めて全員が純粋に当たり前のものとしてあの状況を受け入れている。ゆえに最初は彼らを団地に入れないようにするし、3人が入居したいという意思を見せると歓迎する。


やっていることはカルトの手口そのものなのだが、彼らは外部の人間を洗脳しようとしてやっているわけではなく、本気で良いこととしてやっているような節があるのだ。ここがミッドサマーとの決定的な違いであり、同じフォークホラーながら全く違った怖さがある。


ということで『ミッドサマー』を彷彿とさせるのは確かにそうなんだけど、それは両者が“フォークホラー”という枠に丁寧に沿って作られているからであって、これをパクリだとか影響されすぎとか言ってしまえるのは恥ずかしくないのかなと思ってしまうよ……


とはいえ、観客の記憶の中にまだ『ミッドサマー』が色濃く残っているために、オチまでなんとなく予想できてしまうのはもったいない。


もっと境界線をグチャグチャにして徹底的にこっちを揺さぶってくれても良かったのにとは思った。


とはいえ、Jホラーに新風を吹かす良質なホラー映画だったと思う。また『ミッドサマー』の存在が今作の説得力を上げている部分もある。


啓太や真帆が簡単に洗脳される様子を見てありえないと思うかも知れないが、残念なことにあり得てしまうのだ。自分は大丈夫だと思っているあなた。残念ながら大丈夫ではない。なぜなら“あり得ない”と思ったから。


根拠?『ミッドサマー』公開時に変な方向に熱狂していた日本人の様子を見ればわかるだろう。


実は誰にでも身に覚えのある物語


幽霊を信じ、死ぬのは怖くないと言う割には怪奇現象でパニックになったり、明らかにおかしい状況にも関わらず洗脳されていく一行を見て「こいつら馬鹿だな」とか「そんな簡単に洗脳されないだろ」だなんて思っていると、ふとあることに気づく。


あれ、なんか身に覚えがあるぞ。


幽霊は信じていないし、死にそうになったこともなければ宗教にハマった経験もない。今カノと絶賛浮気中の元カノと行く地獄旅行の経験なんてもちろんない。でも、この状況はどうしても他人事には感じられない。


あー……これ部活とか会社とかと一緒だわ……


学校、部活、家族、会社etc……“社会“の中で培われてきたあらゆる価値観が正しいと疑わずに生きてきたことに気づいたとき、スクリーンの外側という安全圏で眺めていたはずの物語は、今まさに自分の隣で起きている物語へと変わる。


自分にとっての理解不能は他者にとっての当たり前かもしれない、自分にとっての当たり前は他者にとっては理解不能かもしれない。そんな簡単なことに気づいてしまった時、さっきまで馬鹿にしていた目の前の人たちは明日の自分の姿かも知れなくなり、途端に“わからない“恐怖に襲われる。


今作では心霊現象は基本的に存在しないものとして捉えている。ポルターガイストや幽霊など全て理屈で説明できるようになっている。例えば、啓太や真帆たちが幽霊を見る直前には、必ず住民から貰った飲み物を飲んでいる。さらに精神的に追い詰められている時に見ているため、おそらく幽霊は幻覚だろうということがわかる。


なのだが、あくまでも“おそらく”であって確証はない。十中八九飲み物に何かが混ざっているのだが、住民が幻覚剤を入れているような描写は出てこないし、トリップ描写も出てこない。


こういった、多分そうなんだけど断言はできないという描写、つまり“言わない”“見せない”のコントロールが見事だ。言わないし見せないことで、観客それぞれの価値観を浮き彫りにすることに成功している。おそらく製作者の意図以上に。


例えば、今作の感想を漁っていると、後半のエクストリーム展開に対して急に強くなるのがどうのという意見が多く見受けられるが、そもそも弱いと示す描写はなかったのに“急に”と思ってしまうのはまさに価値観が植え付けられている証拠だろう。


一丁前に評価してやろうなんて思っていた時点で術中にハマっていたのである。


最終的にこの団地が主人公にとって良いものだったのか、悪いものだったのかは明かされない。


家族のあり方や男女の役割、他人との関わり方、それが正しいと思い込んできたあらゆる価値観が見直されるようになった昨今。果たして彼らの死生観が間違っていると言い切れるのだろうか。


最後に言及されるとある人物の動向を知ったとき、あれがバットエンドだったと捉えられるだろうか。


傍から見たら気持ち悪い、部活動の因習や薄っぺらく見える集団の絆なども、当事者にとっては心の拠り所になっているかもしれない。


そういうことを考えれば考えるほど、彼らの言う“死”と“生”の概念がわからなくなる。


今作は“死”とはなにか、“生”とはなにかを【考察】することで主人公たちの状況を【体験】する映画なのである。


まだ観ていない人は是非とも“どっち”か分からなくなる恐怖をぜひ味わってほしい。