【感想】映画『ディア・エヴァン・ハンセン』にモヤモヤした理由。

映画『ディア・エヴァン・ハンセン』の感想です(ネタバレありです)


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2021年製作/138分/アメリカ
監督:スティーブン・チョボウスキー
脚本:スティーブン・レベンソン
楽曲:ベンジ・パセック、ジャスティン・ポール
原題:Dear Evan Hansen
出演:ベン・プラット、ジュリアン・ムーア、ケイトリン・デバー、エイミー・アダムス、ダニー・ピノ、アマンドラ・ステンバーグ、コルトン・ライアン、ニック・ドダーニ
配給:東宝東和


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エヴァン・ハンセンは学校に友達もなく、家族にも心を開けずにいる。ある日彼は、自分宛てに書いた“Dear Evan Hansen(親愛なるエヴァン・ハンセンへ)”から始まる手紙を、同級生のコナーに持ち去られてしまう。それは誰にも見られたくないエヴァンの「心の声」が書かれた手紙。後日、校長から呼び出されたエヴァンは、コナーが自ら命を絶った事を知らされる。悲しみに暮れるコナーの両親は、彼が持っていた〈手紙〉を見つけ、息子とエヴァンが親友だったと思い込む。彼らをこれ以上苦しめたくないエヴァンは、思わず話を合わせてしまう。そして促されるままに語った“ありもしないコナーとの思い出”は両親に留まらず周囲の心を打ち勇気を与え、SNSを通じて世界中に広がっていく。思いがけず人気者になったエヴァンは戸惑いながらも充実した学校生活を送るが、〈思いやりでついた嘘〉は彼の人生を大きく動かし、やがて事態は思いもよらぬ方向に進む—。公式サイトから引用

deh-movie.jp


タイトルに書いた通りだが、僕はあまりノれなかった。1回目を観たときにすごくモヤモヤして、急遽予定を変えて2回目を観たところその理由がはっきりとわかったため、それについて話していきたいと思う。


反論大歓迎です。むしろ、これはこういうことだよ!とかいうのめちゃめちゃ聞きたい。


早速、つらつらと書いていこうと思うが、たぶん自分のモヤモヤポイントは他の否定派の人たちと違う。


今作の軸となるのは、主人公エヴァンがついた”嘘”。


”嘘”と”真実”の交差をミュージカルという構図そのものに落とし込み、個人の人生のあり方を問うた作品である。何者かになりたい、世界に自分を見て欲しいという普遍的な思いを美談ではなく、現実的で生々しく描く。


彼がついた優しい嘘の功罪を両面描いたうえで、しっかり顛末まで描いているのだが、この優しい嘘のあり方に対して、賛否が分かれているように思われる。


要するに、エヴァンの行為が不誠実だとか、着地に対してあれで許されると思うなとか、または逆にハッピーエンドが良かったとか。あとはそもそもミュージカルじゃなくてよくない?みたいな意見も多かった。


ただ、僕はこの辺に関しては肯定派である。


事の大小はあれど、自分という存在の証明のために嘘をついてしまうという経験は誰にでもあるだろうし、先にも書いたようにちゃんと”罪と罰”を描き切っているので、エヴァン個人の物語としては素晴らしいと思う。


そもそも”優しい嘘”でもなくない?とは思うけど......
コナーの母親の勢いに怖くなって嘘をついてしまったみたいな感じだと思うんだけどな。まあそこはどうでもいいとして。


また後者の否定意見に関しては、「登場人物が急に歌って踊りだす」というミュージカルというフォーマットそれ自体にある”嘘”と”真実”をエヴァンの物語に組み込ませてあるので、むしろミュージカルじゃなければいけなかったと思う。


今作は「映画の世界のリアルでは歌っていない」をより濃く表現している映画なので、そこに突っ込むのはズレてんじゃないかなと思う。また、エヴァンに感情移入をして、優しい嘘が幸せを導くと思っている観客に現実を見せるという点で、=ハッピーエンドというイメージが強いミュージカルを利用したのは最適解なのではないか。


ということで、僕がモヤモヤしたところはそこじゃない。優しい嘘がどうとかは、正直どうでもよい。


コナーの死が全ての起点となっているはずなのに、それがどんどんと脇に追いやられていくのがモヤモヤしたポイントだった。


今作が全面的に打ち出しているメッセージは「あなたは孤独じゃない、あなたに気づいている人が必ずいる。だから死ぬな。」である。


ということは、作品が想定しているメッセージの受け取り手というのは、コナーである。


今まさに孤独に耐え切れずに死のうとしている人へのメッセージなのである。


でも、劇中でコナーは死んでしまった。じゃあどうすればいいのか。


それがエヴァンである。


エヴァンとコナーは表裏一体の存在として描かれ、互いにこうなったかもしれないというIF未来である。


だから、「君は孤独じゃない」というメッセージを打ち出すなら、コナーの死にこそ目を向けなければいけないはずだ。


エヴァンが「コナーは自分だったかもしれない」と気づいて、そこから自身の行いに向き合うことで初めてコナーの死が救われるのではないだろうか。


コナーがなぜ死んだのか、心の内でなにを抱えていたのかは知る由もない。死人に口なしだ。


けれど、真相は知る由がないけれども、もしかしたら私たちが彼を殺してしまったのかもしれないという“社会”の罪を描いてこそ、あなたは孤独じゃないというメッセージが際立つのではないか。


そして第二のコナーとして、"死"ではない道を体現するのがエヴァンなのである。


なのに、今作は物語が進むにつれてコナーが脇に追いやられていくからすごく気持ちが悪い。


自身を世界に認めてもらうためにつく“嘘”の功罪と、“健常”じゃないと認定された人を視界から消す社会の罪は地続きであれど別の問題だ。


ましてやエヴァン個人の贖罪なんて、いまこの瞬間に死のうとしている人には全くもって関係のないことである。


"孤独感”からの”死”というテーマが、いつの間にか”嘘”の功罪というテーマに代わっており、コナーの死がただの舞台装置にしかなっていないように感じられるのだ。


いままさに孤独感に押しつぶされそうな人たちを救っているように見せかけて、全く救っていないのでプチパニックである。


まず、こういった気持ち悪さがあるよというのを前提として、ここからが本題だ。


なにより気持ち悪いのが、今作がちゃんと人の死をコンテンツ化する恐ろしさと気持ち悪さを描いている点だ。


誰かが死んだときだけ、その人との思い出を語ったり、写真をアップする気持ち悪さ。


死を悼む姿勢を見せながら、数か月後には心の隅にも残っていない気持ち悪さ。


当人の心情なんて分かりやしないのに、勝手にストーリーを作って”死”に意味を持たせようとする気持ち悪さ。


さも立派なことを言って、”死”を自分の成長や主張に利用しようとする気持ち悪さ。


こういったことをはっきりと描いておきながら、そこガン無視でエヴァン個人の物語として収束していくのが心の底から理解できない。


例えば、アメフト部?の3人組がコナーのロッカー前で写真を撮るカットの絶句する気持ち悪さよ。あれがまさにSNS時代で浮き彫りになった社会の罪で、問題なわけじゃないですか。


最たるものは、エヴァンのスピーチのシーン。エヴァンの心の叫びに”感動した”とメッセージや動画を次々に挙げていく人たち、彼らの動画でコナーの顔が出来上がった瞬間が恐ろしすぎて見てられなかった。そういえばここでも緑スタジャンのあいつらいたじゃん。


案の定、その後立ち上がった「コナープロジェクト」では回を重ねるごとにどんどん人が少なくなっていく様子が描かれているわけで。緑スタジャンのあいつらも途中からいなくなってた。あいつらめっちゃ嫌いだわ。特にパーマのやつ。


というか、そもそも今作の登場人物って全員自分のことしか考えていない。


エヴァンはあの通りだし、アラナも優等生は優等生の苦しみがあると言いながら、やることなすことすべてが自分の肯定のためでしかない。だから安易にエヴァンの手紙をネットに公開したりする。


ジャレッドだって、自分もエヴァンの嘘に加担した人間なのにずっと他人事である。ゾーイはゾーイで兄に振り回された自分のことばっかり考えている。


コナーの両親も同じで、彼らも結局は”親”としての自分たちしか見えていない。だから、エヴァンと初対面のシーンで、彼がコナーとは友達じゃないと言っても信じようとしないし、メールのやり取りがあるはずだとしつこく迫る。要するに、自分たちは良い親だったと肯定したいのである。


エヴァンの学費を出してあげたいというのだって、エヴァンを家族だと認めたうえで、優しさからの発言かもしれないが、辿っていけばコナーとエヴァンを重ね合わせて、自分たちは親として間違っていないと証明したいだけである。


とはいえ、それが現実の生々しさであるため、そう描くこと自体は悪いことじゃない。むしろ安直にハッピーな世界に逃げないという点では素晴らしいとおもう。


ただ、その責任を全てエヴァン個人の物語に収束させてしまったことがよくない。


あれはエヴァン個人の罪ではなく、社会全体の罪ではないか。


もちろん嘘をついたエヴァンは簡単に許されるべきではなく、映画で見せた彼の顛末はそれはそれで納得できるものである。ただ、コナーの死を自分の肯定のために利用しようとしたのはエヴァンだけではない。


アラナもゾーイもジャレッドもラリーもシンシアも緑スタジャンのあいつにも罪がある。


コナーが孤独を抱えて死んだとするのならば、エヴァンのスピーチに感動した全員の罪である。観客の僕たちもその中に入っている。


勝手な価値基準で“健常”かどうかを判定し、世界に存在したいなら意味を提示しろと迫り、いなくなれば急に自分事にして涙を流して数カ月後にはすっかり忘れて......


けれど、その視点がごっそり抜け落ちたままエヴァンが嘘をついたことだけが悪いみたいになっているのがすごく気持ち悪かった。


そこを無視して「君は孤独じゃないよ!なにかあったら相談して!」って言ったってなんの解決にもならないじゃないですか。


エヴァンが嘘を告白した後の行為も理解できなくて、インスタ?にメッセージを投稿するのはいいとしてあれだけだと絶対に言葉足らずだろう。


コナー両親に攻撃しないでくれと頼むなら、彼らがエヴァンが自殺してしまうことを心配して誹謗中傷を受け止めることに決めたということを言うべきだし、そもそもあのスピーチ自体は自らの心の叫びで嘘ではないんだから、そこはちゃんと言うべきじゃないか。


それから、彼とのエピソードは嘘でも、自分に気づいてくれて、唯一ギプスにサインをしてくれたのがコナーだったのは事実なんだからそこも言うべきでは。


コナーの抱えていたものはわからないとしても、全くの0というわけではなくて、例えば彼をキレさせようと揶揄う同級生がいたことと、エヴァンの手紙にキレていた時の「お前も俺をキレさせようとして揶揄うのか!」みたいなセリフから彼の身の回りで何があったのかはわかるわけじゃないですか。


だし、エヴァンは家族から話もきいているのだから、真実はわからなくても自分が言われたことと、家族から聞いた事実は知っているわけで、それと自分を重ね合わせて正直な思いを改めて発信することだってできるのにただ、僕は嘘をつきました、僕が悪いです。コナーの家族は責めないでくださいだけってそれは誠実さを装った不誠実なんじゃないのと思ってしまう。


僕たちはコナーを見つけてあげられなかったけど、コナーは自分をたしかに見つけてくれたということを発して初めて、第二のコナーになろうとしている人たち、彼の死に一瞬でも何かを感じた人たち両者に「あなたは孤独じゃない」というメッセージが届くのではないか。


それから、先にも書いたが、コナーやエヴァンが孤独を感じるのは、”健常”とされる僕たちが、”健常でない”人が社会にいるのには【意味】が必要だみたいな空気を作ってるからじゃないですか。


なんだからやっぱりその視点はなあなあで終わらせたら駄目だと思うし、エヴァンのスピーチに感動したお前らも悪いからなという視点が欲しかった。


特に日本ではつい最近、今作に重なるような出来事があったわけじゃないですか。責任の伴わない善意が人を殺して、さらにその死に勝手にストーリーを作って自分の主義主張に利用しようとする人が出てきたり。日本に住む多くの人がそれを知っているはずなのに、そこ無視で今作に感動したとか勇気づけられたとかは、僕にはどうしても思えない。