※この記事はネタバレを含みます。
『ジョーカー』
2019年/アメリカ/122分
原題:JOKER
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
出演者:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ
あらすじ
本当の悪は、人間の笑顔の中にある。 「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。 都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母 を助け、同じアパートに住むソフィーに秘かな好意を抱いている。笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、狂気あふれる〈悪のカリスマ〉ジョーカーに変貌したのか? 切なくも衝撃の真実が明かされる!(映画『ジョーカー』オフィシャルサイトより)
映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開
金獅子賞も納得の傑作です。
今の時代に真に迫ってくるアーサー・フレックという男。それを演じるホアキン・フェニックスのまさに怪演、70年代を彩る衣装と美術、音楽。
善良な心を持っていたはずの人間がどうやって悪に堕ちていくのかを現実社会に絡めながら丁寧に描き社会を挑発してきた122分に鳥肌が止まりませんでした。
大好きな映画の一本となった作品です。
ですが僕は今ものすごく複雑な感情を抱いています。その感情について話していきたいと思います。
目次
ジョーカーの「悪」
この映画はDCコミックスの「バットマン」に登場したジョーカーというヴィランの誕生譚を描いた作品です。
彼はコミックスの敵役という枠から飛び出し、いまや悪の象徴である存在として扱われています。
彼が悪事を働く理由は「楽しいから」
善良な人々を堕落させ悪に引きずり込み楽しみます。自分の死さえも厭わずに。全てはジョークだから。
まさに悪魔。
道化師は高らかに笑いながら死の輪舞を描くのです。
そんなジョーカーの「悪」を徹底的に突き詰めたのが、クリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト』。
この作品でヒース・レジャーが演じたジョーカーはまさに純粋悪であり、フィクションだからこそ描けた常軌を逸した狂気はまさに伝説。
そんな『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じたジョーカーの後に、ジャレッド・レトのジョーカー単独作をなしにしてまでジョーカーの誕生譚を作るというのだから想像もできないような狂気と「悪」が見られるのだろうと思っていました。
しかし今作のジョーカーはどうだったか。
たしかに人が悪に堕ちていく過程を非常に丁寧に描いており、その姿は国を問わず現実的な物語として、多くの人に恐怖や共感を与え、物議を醸すまでにいたったことには納得できます。
しかしそれはジョーカーの「悪」なのでしょうか。
アーサー・フレックの物語としては完璧だが...
この映画は『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』などを引用し、普通であったはずの人が狂気に飲み込まれていく様を描いています。
また、「キリングジョーク」というコミック作品を下敷きに作られているのは明白です。
キリングジョークでジョーカーは家族を愛する善良な心を持った人間として描かれます。売れないコメディアンだった彼は生まれてくる子どものためにギャングの仕事に手を貸します。そこでバットマンに追われた彼は逃げた末に薬品タンクに落ち顔が真っ白に髪は緑になり唇は真っ赤になります。さらにギャングに手を貸す直前に愛する妻を失っていた彼は絶望しジョーカーになるのです。
そういった作品を組み合わせ、現実社会も絡ませて作り上げた『ジョーカー』はたしかに新しいジョーカーと言えるでしょう。
ただし悪人像としてはどうでしょうか。
生まれ持った障害などの遺伝的要因や病気、虐待、貧困などの環境。自分ではどうしようもない不幸の中で生きてきた人間がなにかしらのトリガーをきっかけに認知が歪み悪の道に堕ちていくというのは全く新しくもなんともありません。
古今東西、様々な時代と国で描かれた悪人像です。そしてこのような人は現実世界にもたくさん存在します。
結果「悪」としての存在がありふれたものになっているわけです。悪の矮小化です。
そういった悪の描き方自体は悪いものではありませんし、それが監督の意図したところでしょう。しかしジョーカーの真の恐ろしさや純粋悪としてのカリスマ性は全く感じなくなっています。
アーサー・フレックの物語としてなら文句なしに完璧ですがジョーカーの物語としては...
トッド・フィリップス監督はインタビューでこう語っています。「キャラクター・スタディの映画をアメコミキャラクターを使って作ればいい」「全てを現実的に描きたかったのでー」
つまり、心優しきはずである人が悪に堕ちてジョーカーに"なる"話であってジョーカーの物語ではありません。ジョーカーである必要性が全くない。
『ジョーカー』のなかで描かれる出来事は悲痛で恐ろしいものではあります。ですが悪人像としてはステレオタイプと言わざるを得ません。
だからこそ映画を観た多くの人の琴線に触れたわけでもあるのですが......(後述しますがこれに関しても言いたいことがあります)
ジョーカーにしか体現できない「悪」を観たかったわけで、想像できる、理解できる、同情できる「悪」をジョーカーのなかに見たくはなかったわけです。
今の時代だからこそ切実に迫るアーサー・フレックという男でしたが、同時に今の時代だからこそ見たくなかったジョーカーでもありました。
この時代にジョーカーを描くのならば、アーサーのような、悲劇により悪になった人間すらもジョークにして笑うような、今の時代をもってしても到底理解できないような震え上がる狂気の誕生を描いて欲しかった。
やはりジョーカーは「善」と「悪」をジョークでもて遊ぶ存在でいてほしい。残念ながらそういった狂気はアーサーからは感じられません。
なのですが、なのですが、、この映画は紛れもなくジョーカーの映画なんです。ここにきてなにを言ってるんだと思うでしょうが、これはジョーカーの映画なんです。
ジョーカーの物語ではないがジョーカーの映画なんです。
本当の悪は人間の笑顔の中にある。
映画のキャッチコピーであるこの言葉。それが示しているものは映画を観た人ならよくわかると思います。
この言葉は非常にジョーカー的です。 善良な人々も高潔な人物もその笑顔を剥がせば悪であると唆してきます。
アーサー・フレックもその言葉に渦に巻き込まれた一人です。
悪に墜ちるカードを全て手に入れてしまった男が「悪」を選択してしまうのです。
まるでジョーカーの冗談の餌食になったように。
今作でもっともジョーカーらしく、我々を混乱させている要素があります。
彼の妄想性です。
劇中アーサーは妄想性障害を抱えていることが明らかになります。そしてラスト、精神病院でカウンセリングを受けているシーンが最後に映し出されます。
このシーンを最後に持ってくることで、どこまでがアーサーの妄想なのかがわからなくなります。 それどころかこれまで観た2時間全てがジョーカーの嘘という可能性すらあるのです。
『ダークナイト』でヒース・レジャーのジョーカーが過去を語ったときのように、あるいはコミック『THE ORIGIN OF THE JOKER』で自らの誕生を語るジョーカーのようにアーサー・フレックの物語はジョーカーが用意したカードのひとつに過ぎないのかもしれません。
仮に今作の誕生譚がジョーカーの嘘だとするならば、僕たちはまんまと手のひらの上で踊らされていることになります。
この映画が紛れもなくジョーカーの映画である理由はここです。
わたしたちの中にもジョーカーはいる
映画を観てジョーカーに共感し感情移入をした人はたくさんいるでしょう。彼の悪行を見ているはずなのに実は可哀想な人間だったんだとアーサに同情し感情移入してしまう。
それもそのはずアーサーは本来は優しい心を持った真人間でした。アーサーの目前には彼を救えるきっかけが無数にあったはずです。
そのような人物に自分を重ね合わせてしまうのも納得できます。
「わたしたちの中にもジョーカーはいる」
映画を観た人たちのなかからこんな声が聞こえてきました。しかも一人や二人ではなくかなりの数が。
アーサーの不幸な環境や生い立ちに自分を重ね合わせ、いつ自分がジョーカーになってしまってもおかしくないと言います。
素晴らしい心がけ。
ですか?
ぼくにはこれこそジョーカーの仕掛けたジョークであるようにしか見えません。
本当にあなたはジョーカーなんですか?
「わたしたちの中にもジョーカーはいる」と言った人の大半はきっとアーサーよりも遥かに幸せな環境にいるでしょう。
お金持ちではないでしょうが、つらい経験をたくさんしてきたでしょうが、アーサーから見ればわたしたちは証券マン側の人間です。
それなのに自分の不幸とアーサーの不幸を同列に考えてわたしたちもジョーカーだなんて言う。
また、ジョーカーも可哀想な人だったんだね、誰しもジョーカーになる可能性があるんだ、自己責任じゃない、環境が、社会が悪いんだ。そんな素晴らしい心がけを持っている人たち。
現実世界でも同じことが言えますか?
悪人にもバックボーンがある。なぜ『ジョーカー』を観ないとそんなこともわからないのでしょうか。
悪いことをした人を駄目なものは駄目だと問答無用で叩く。世の中を嘆くくせにその原因を考えようともせずに正義だけを唱える。
そんな人たちが『ジョーカー』を観て感動しているのです。
笑えませんか?
なぜ自分もジョーカーを生み出している一員だとは考えないのでしょうか。なぜ虐げられる側の人間だと思うのでしょうか。
安心してください。ぼくたちはジョーカーにはなれません。ジョーカーを見てピエロのマスクを被った少悪党にしかなれません。
笑う男
そういった現象こそがまさにジョーカーらしくはないでしょうか。
ぼくにはアーサーもジョーカーに試された一人にすぎないようにしか見えません。
この映画の外で本当のジョーカーが笑っているように思えるのです。
絶対に許されないような悪でさえ可哀想なエピソードを交えれば同情と共感を得て称賛される。
これはめちゃくちゃ怖いことで、ジョーカーという元々カリスマ性のある悪人を矮小化させ身近な存在だと刷り込ませることで最悪のムーブメントを起こす。
まさに「善」と「悪」をジョークでもて遊ぶ狂気です。
これがこの映画が紛れもなくジョーカーの映画である理由です。 ジョーカーの物語ではないかもしれないが、確実にジョーカーの映画ではあるのです。
今作に共感し、感嘆している人たちを見てジョーカーは笑っているでしょう。
最後に
ごちゃごちゃと色々言いましたがぼくはこの映画を否定したいわけではありません。むしろ傑作だとおもっています。
ホアキン・フェニックスはどう見てもジョーカーだったし、音楽、衣装、美術本当に素晴らしいです。
アーサー・フレックが悪に堕ちていく様子は真に迫るものがありましたし、初めて人を殺し恍惚な表情で踊るシーンは本当にゾクッとしました。
『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』を引用しながら、それらの映画で主演を演じたロバート・デ・ニーロを殺害することで親殺し、王殺し(『キングオブコメディ』の主人公は自分のことをコメディ王、キングと名乗る。ジョーカーは唯一王を殺せる切り札。)を果たし英雄になるというプロセスには感嘆しました。
そもそもジョーカーとはこういうやつだという特定の設定は存在しないので、コミックや映画によって人物像が変わるし、彼の誕生に関しても様々な話があります。
これはという物語は存在しないために、この映画も紛れもなくジョーカーの誕生譚なのです。
ぼくが述べたことをひとつの想像に過ぎませんし、真実は誰にもわかりません。
肯定的な人も否定的な人も映画『ジョーカー』のことを考え、様々な意見を取り交わす。それだけでこの映画が傑作である証拠になるでしょう。
最後にもうひとつだけ。
アルフレッド、貴様だけは許さん