僕はドラクエをやったことがありません。
ただの一度もやったことがありません。
お試しプレイ的なのもやったことがありません。
そんな僕が映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てきました。
ドラクエをやったことがないのにです。
僕がドラクエに関しては知っていることは『天空の花嫁』でビアンカかフローラどっちかを選ぶ展開があることと勇者の剣の存在をざっくり知ってるだけです。
モンスターはスライム、キングスライム、はぐれメタルしか知りません。
呪文はベホマズンとザラキだけです。
テーマ曲はもちろん知ってます。めっちゃ好きです。
あとぱふぱふは知ってます。それとぱふぱふは知っています。
そんなファンではない人から観たらどうだったのか。NOT a FANの僕の感想を書いていきます。
なので原作にどれだけ忠実なのか、音楽は正しく使われているのか、他のシリーズとごちゃまぜになってないのかなどは分からないです。
ただ純粋に映画として観た感想です。
※ここからネタバレを含みますので嫌じゃない方のみ進んでください。
ラストがぶち壊しているのはドラクエファンの思いだけじゃない。
結論から言えば単純に映画としてちょっとこれは...という感じです。
冒頭でゲームの映像と共に幼年期を猛スピードで端折っていたことや、その後も急な設定や展開で物語を端折っていたのはゲームをやっていない僕が悪いので仕方ありません。
でもある程度は知らない人でもわかるように描くべきなんじゃないの?とは思います。
展開が早すぎて完全に観客任せな世界観の設定だし全ての出来事がゲームをやっていた人の思い出任せです。
急にビアンカとフローラがでてきてどっちと結婚するか悩んで、自分の本当の思いに気づいた!とか言われても感情移入できる間がないので、はあそうですかお幸せにねとしか思えません。
劇中で"クエスト"という言葉がでてきたり、主人公とお父さんの住んでいる場所がどうみても山奥にひっそり建つ一軒家なのにサンタローズという"村"だったり、ルドマン邸?にどうみてもフローラとお父さんしか住んでいないなど、「意味のある意味ないもの」が全くでてこないのも気になりました。てかクソだなと思いました。
それから、始めにヘンリーが重要そうな役どころで出てくるにも関わらずクライマックスまで再登場しない上にでてきても対して活躍の場を与えられずモブと変わらないとか、ただ子どもができただけで父としての物語がなにもないとかそもそもこの世界の人たちが魔物に苦しめられているようには到底思えないなど不満はたくさんありました。
それでもまあ許せる範囲ではありましたし、映像は悪くなかったので全部ゲームをやっていない僕が悪いんだと思って観ていました。
ラストの展開までは..
僕が映画を観る前に思っていたことは「逃げるなよ」です。
ドラクエを知らないといってもみんなのビアンカとフローラに対する思いは嫌というほど聞かされてきました。
だからどちらかを選べばもう片方からの批判があることは自明です。また一本のゲームを100分にまとめるのはほぼ不可能なので、どこかで端折ったり改変することが必要になってきます。
そこを曖昧にして誤魔化して観客の想像任せな「ユア・ストーリー」タイトル回収の逃げはするなよと思っていました。
結果的にはそれ以上の逃げをかましたわけですが。
ラスボスである大魔王ミルドラースが復活したと思いきや、実はそいつはウイルスでこの世界はVRゲームの世界であると分かります。
時間が止まりキャラはポリゴンになり消えていく。
ウイルスは主人公に「これはゲームでお前の人生ではない。大人になれ」という。主人公は絶望するがそこに今まで一緒に旅をしてきたスライムがあらわれ、「実はわたしはアンチウイルスソフトだ」などと言い出す。
元気を取り戻した主人公は「ゲームはやっぱり僕の人生の一部なんだ」みたいなことを言ってウイルスを一刀両断して世界は元に戻ってめでたしめでたし。
は?めでたくないし。
まずこのクライマックスが表しているのは、今まであなたが観てきたものはゲームのプレイ映像なので批判は受け付けませんということである。
冒頭で幼年期が端折られたのもプレイヤーがそういう設定をしたからだし、クエストなどの言葉がでてきたのもゲームだから。急な展開もゲームだからだし、観客任せな世界観もヘビーユーザーのプレイヤーから見たゲーム映像なので仕方ありません。ビアンカを選んだのもゲームの一選択に過ぎません。
どっからどうみても「逃げ」ですよね。
起こりうる否定的意見を問答無用で封じ込めようとしたのがこのクライマックスです。
全ての違和感の正体はゲームの設定だったからということにすれば全部丸く収まるんじゃねという安易な発想が透けて見えます。
別にメタ展開自体を否定しているわけではありません。そこに確かなメッセージ性とメタ構造ならではの深みがあればなにも問題はありませんでした。
同じようなオチで『レゴ・ムービー』という映画があります。レゴの世界で繰り広げられる物語は実はレゴで遊ぶ子どもの想像の世界でしたという展開ですが、ここには「レゴ」というおもちゃの特性を120%に活かした素晴らしいメッセージが込められています。また、現実世界でのストーリーがしっかり描かれている上、現実世界の問題がレゴ世界の問題とそのままリンクしているから、急に現実の世界がでてきてもすんなり受け入れられるし、なんならさらに今まで観てきたものの深みが増すという素晴らしい構造になっています。
それでは『ユア・ストーリー』の方はどうかと言うと、メタ構造はただのびっくり展開機能で終わっています。現実世界のプレイヤーのストーリーは全く描かれないし、フィクション世界との何かしらのリンクがあるわけでもありません。
なんならこの展開のせいで余計におかしくしている部分すらあります。
例えばフローラを選んでいたのは自己暗示をしていたからで本当に好きなのはビアンカだったという展開。ビアンカへの気持ちに気づいていたフローラが魔女に変身して自己暗示を解くのですがおかしくないですか?
自己暗示がゲームのオプション設定ならそれを守らないのはゲームの欠陥じゃないですか。
あとゲームプレイ時にプレイヤーの記憶を消すっていう絶対にセキュリティを徹底しないといけないものに簡単にウイルス仕込まれるなんてやばくないですか?
ウイルス仕込んだ人がゲームを否定したいだけの人で良かったよ。
少し脱線しましたが、結局僕たちは知らない人のゲームプレイ映像をただ見せられていただけです。ユア・ストーリーとか言われても、いやいや知らんサラリーマンのストーリーじゃんっていう。
ドラクエ世界の物語から得られるメッセージはなにもないし 、はっきり言って無駄な時間だったわけです。ドラクエである必要すらないですよね。
だって込められているメッセージが「ゲームは楽しい」だから。成長もへったくりもない。
映画を観ていて分かりましたが、「Ⅴ」って三世代に渡る物語ですよね。
幼年期があって青年、そして親としての成長を描いた人生の物語ですよね?
ビアンカかフローラを選ぶのも青年期における人生の選択の1つってことでしょ?
じゃあいくらでもやりようあったよね。
そもそも、「『ゲームは所詮虚構の世界だ、そんなものに熱中してないで現実見て大人になろうぜ』っていうやつがいるけど俺は肯定するぜ。ゲームは大切な思い出だから」ってめちゃくちゃ薄ーーーーいメッセージじゃないですか。
お前なんかに肯定してもらわなくてもこっちは分かっててフィクションの世界に触れてんだよって感じです。
なんでこんな良い題材でメタ構造やってこんな薄いメッセージに出来るのかが不思議です。
大人になってこの映画を観に来る人たちは確実にそんなこと乗り越えてるわけですし、子どもにそんなこと言うならおこがましいにも程があります。
やるならゲーム否定派の思いももっと入れなきゃいけないし、ドラクエ世界の物語にもそういう要素を入れなければいけません。じゃないと説得力皆無です。
今作の展開はウイルスがあらわれてゲームを否定されました→でも僕にとっては大事なものです→だからゲームの世界に留まります。だけです。
これでは残ったのはフィクションはフィクションだよという事実のみです。
結果愛を持って肯定しているつもりがフィクションの否定になっています。
製作者が意図してようがいまいが、ゲームは大切な体験だね、でもそれ虚構だけどねというメッセージになってしまうわけですね。
そしてこれはゲームだけでなく全ての創作物の否定になってしまいます。本も映画もフィクションだから。
映画監督という自分の人生を否定することにも繋がりかねないのに何がしたいんですかね。